知的であることと誠実であることと鼎立しないこと

「知的であることと誠実であることとナチスであることは鼎立しない」。

出典元は忘れたが、上手い言葉だと思う。
そして使える言葉だ。
ナチスの代わりに色々な文言が入りうる。

ナチス以後で超分かりやすい例としてはこれだろう。
「知的であることと誠実であることと大躍進から文化大革命期にかけての中国を生き延びることは鼎立しない」――あの時代においては、
「知的であることと誠実であることと共産党員であることは鼎立しない」と確実に言えただろう。

文化大革命についてはユン・チアンの「ワイルド・スワン」を読んだ衝撃が忘れられない。

ワイルド・スワン(上) (講談社文庫)

ワイルド・スワン(上) (講談社文庫)

「知的であることと誠実であることと鼎立しないこと」をそれと自覚した上で行っていると確実に人として毀損していく。
あの時代、相当、人々の人間性やらモラルやらは毀損しただろうと思う。
中国の大損失時代だ。

★★★

戦後日本では日本赤軍やらオウム真理教やらの過激化した集団もあったが、幸いほとんどの人はそこまで苛烈な体験を強いられずに済んでいる。とはいえ、この言葉はもっと身近でも結構成立する。
例えば、
「知的であることと誠実であることとオリンパスの監査法人であることは鼎立しない」とか。

ナチスの党員や文化大革命紅衛兵だののように直接人を貶めたり暴力をふるったりしなくても、単純に「誠実であることと両立しない仕事」をしていると人間として何かが毀損していく。

しかしながら、我が身に「鼎立しない」が当てはまることをひっそりと苦く肯定する人も多いのではないか。
「○○会社社員であることは鼎立しない」、「○○を販売(とか推進とか)することは鼎立しない」とか。

告白すれば私がそうだ。

自分の仕事や活動が「知的であることと誠実であることと鼎立する」と言える人は幸せだ。とつくづく思う。

というか、本当は鼎立しないような仕事は辞めるべきだ。または是正すべきだ。
それはそうなのだけれども。
でもなかなかその実行には勇気がいる。