山一證券破綻の遺産

1997年11月、山一證券破綻。破綻の原因は簿外債務、「飛ばし」だった。
あの野澤正平社長の絶叫、号泣会見は忘れられない。
「社員は悪くありません!」
少なくとも「悪いのは私達経営陣です」という当たり前の認識がある点は、「この社長、自らの責任(経営責任)をまったく感じてないようだ」、「この社長、自分に反省すべき点があるという思考回路が欠落しているようだ」というような某社や某社等々の会見に比べ実に感動的だったと思う。

でもやはり「ちょっと待て」と思う。
「いや、社員も悪いだろ」
経営責任を負うのは経営陣であるべきだけれど、あの「飛ばし」は、山一全体でやったことだ。「飛ばし」にかかわっていた社員が「悪くない」わけはない。というか「飛ばし」等々不適切な業務について山一社員は「悪かった」とおおいに反省しないとまずいだろう。

また、多大な迷惑をかけた社員以外のステークホルダーが眼中に入っていないように感じる。
山一證券の株主:山一證券への投資はふっとんだ。「莫大な簿外債務の存在を知っていれば投資しなかった」とすれば山一にだまされたと言える。
山一證券の顧客:山一には株式投資の損失補填がされる特別な顧客とされない普通の顧客がいた。つまり普通の顧客の支払う手数料が特別な顧客などの損失補填に使われた構図にもなるわけで、公平性に著しい問題がある。
日本社会:「証券会社って飛ばしはするは、特定の顧客に損失補填をするは、投資家に正しい財務を公開するとか、顧客を公平に扱うとか、当たり前の守るべきルールを無視するんだ。これが上場企業なんだ。へー。」と思わせ、日本社会のモラルに悪影響を与えた。

「社員は悪くありません!」という野澤社長の絶叫会見は、自分達(自社の構成員)しか見えていない、閉鎖的で日本的な経営感覚を露呈した会見にも感じられる。

ある知人の話である。
「学生時代の友人が山一にいまして、頼まれて随分株を買いましたよ。結果的に自分は株で大損しました。でも友人は山一退職の時、本当に多額の退職金ももらいましたし、いいところに再就職しましたし、なんか納得いかないんですよね。」

憶測だがこの知人は山一證券の株も(山一の友人に強く奨められて)買っていたのではあるまいか。そうであれば「簿外債務を隠した山一に欺かれた株主(投資家)」として確かに納得できないだろう。
また、山一の個人顧客としては、証券投資の大損は自己責任で当然生じうることなのだが、その営業実態が「お願いだから買ってくれよ。ノルマがあってさぁ。絶対もうかるから。」「お前がそんなに言うんなら買うよ。」といった感じだと大暴落で大損が生じた時「納得できない」ということになってくるだろう。
株式などを情で営業するのは不適切だ。大体、それでは投資家が育たない。思うに有価証券報告書や事業報告書等を読み、投資判断ができる真っ当な投資家を育てることが証券会社の社会的責務だろう。そして山一證券がその社会的責務を担ってきたのかはなはだ疑問だ。

さて、ここに山一破綻に関する一級の資料がある。

山一證券株式会社 社内調査委員会「社内調査報告書—いわゆる簿外債務を中心としてー」
http://www2.kunihiro-law.com/jimusho/yamaiti.pdf

かいつまんで見てみよう。

・山一は顧客企業との間で「にぎり」(有価証券の利回り保証付一任勘定取引)を行なっていた。「にぎり」は事業法人部のライン部長の承認の下行なった(87年ごろ)。本部長から「にぎってでも顧客企業の資金導入を図れ」と指示も出された(88年)。


「証券投資は投資家の自己責任で行われるべきものである」という投資の超基本原則をあっさり放棄している。
投資というものに対し、顧客企業の理解がないなら理解させるのが証券会社の社会的責務だ。「にぎり」OKなんて価値観の証券会社社員は存在自体がまずいだろうに、再就職にあたって山一の社員はこの価値観を払拭できたのだろうか。
残念ながらアヤシイところだ。

とはいえ。

・損失補填の禁止を明文化した改正証券取引法の施行(92年1月1日)

山一に限らず損失補填は他の証券会社でも一般に行われていたわけだ。


・営業特金(「にぎり」の温床)全廃へ。しかし事業法人本部の損失規模は大きく解消せず(90年)。
・91年、山一のペーパー会社が、含み損が発生している有価証券を引き取る「飛ばし」実施(含み損総額約1,207億円)。

山一證券が引き取りを行う際、この引き取りが、将来会社に及ぼすであろう影響について会計的、財務的、法的、社会的側面からの「リスク」の分析等、具体的な検討が行われた形跡はない。

杜撰。しかし、「あー、やっぱりどこもこんなもんだよね」というように、感覚的にこのいい加減さ、よく分かる。
分かるがそれではまずい。
リスク管理、リスク検証は経営判断にあたって行なわなければいけない義務だ。それを認識しなければならない。

・91年、東急百貨店と山一證券との間の簿外債務を山一が引き取らない方針としたところ、大蔵省証券局長が「飛ばし」を示唆。

とんでもない監督官庁もあったものだ。この松野允彦局長の「指導」は越権というより背任だろう。監督官庁も監督せねば。
どうやって?誰が?

・95年8月、総額約6,300億円(!)の含み損についてのファジーな先送り会議。

『複雑に泳いでいるため、それぞれの損がどこに帰属するのか、出席者たちは担当者の説明だけでは十分に理解できず、会議は担当者の説明だけに終始した感があった。6,000億円を超える含み損が山一として負うべきものなのか、それとも知らないと突っぱねるものなのか、山一の子会社を1つつぶすだけで終わるのか、判断しうる資料は全くない状況であり、(中略)、経営の判断としては先送りするしかないだろうな、という内容で、その場の雰囲気も大勢がそうであった。会議が終了して、この会議の主旨は何であったのか?と疑問に思った。我が社特有の結論の出ないファジーなままの会議であった』

ファジーな会議。別に山一特有ではない。むしろ「分かる分かる。よくあるっていうか基本だよね、そういう会議。なにせ『和をもって尊し』だし」といったところだ。
だが、それではまずい。
「山一が負うべきものか否かちゃんと検証して、対応を決めましょう。」ではなく「先送り」というファジーな対処しかできない会社は破綻しても無理はないのだ。と認識を改めるべきだ。

というわけでこの報告書には、他山の石とすべきことが沢山盛り込まれている。
何が、どう悪かったのか、どうすべきだったのか、その検証がなければ次に進むことはできない。検証がされなければ、改善もされない。必ず全く同じ過ちを繰り返すだろう。

山一の社員の方には申し訳ないが、山一證券が消滅したことを私は惜しいとは思っていない。つぶれるべき会社はつぶれるべきである。そして山一はつぶれるべき会社だったと思っている。
しかし、この生々しくも真摯な報告書は日本にとって大変貴重な遺産だ。この報告書の作成と公開をもって、山一證券は大変価値ある会社であったと思う。
残念なことだが、別に山一證券が特殊なダメな会社というわけではなく、山一とまったく同じ体質や問題を多くの会社が抱えている。


この社内調査報告書の作成経緯や現場を、社内調査委員会に参加した国広弁護士が著していて、これがまた面白い。

国広正「修羅場の経営責任 今、明かされる「山一・長銀破綻」の真実」

修羅場の経営責任―今、明かされる「山一・長銀破綻」の真実 (文春新書)

修羅場の経営責任―今、明かされる「山一・長銀破綻」の真実 (文春新書)

「山一破綻は“不慮の事故”ではなく“不正の結末”である。このような巨大な不正は、日本の企業社会における“法の不在”に根本原因がある。我々判定委員会の責務は法律を本来あるべき位置に戻すことであり、あくまで法律のみにしたがった判定を行うべきだ。古い“常識”は明確に排除しなければならない。」

法より“常識”。20世紀の日本は実質「法治国家」ではなかったのだな、ということがうかがい知れる。

そもそも“常識”ってなんだ?という話である。
“常識”というやつはその場その場で都合よく変わる。もちろん“常識”を都合よく定め、都合のいいタイミングで変えるのは権力を持つ者だ。だがら“常識”は弱者にとって厄介なのだ。結果的に弱者が不当に割を食うことになる。
公平な社会であるために、ルールが明確に定められた、またルールを変えるときは公示される法治国家であるべきだ。

「判定委員会は、『会社のため』という抗弁を認めない。従来、我が国において、法に反する行為を行ったものが『会社のための行為である』と抗弁した場合、会社がその者の法的責任追及までは行わないのが通常であった。しかし、このような法から乖離した企業内規範をもつことが許される理由はない。かかるダブルスタンダードに基づく行為は『市場』の厳しい制裁を招き、企業の存立そのものを危うくするからである。」

この部分、多くの会社員は100万回くらい読んだ方がいいと思う。
経験的に『会社のため』『顧客のため』というフレーズで違法または筋の通らないことを提案する人は実に胡散臭いし、浅い。「それ『自分のため』だろ。短期的に効果・業績が上がり、上がった業績は提案・実行者の評価につながるだろうが、将来的なトラブルリスクを抱えることになる。そのトラブルリスクが顕在化したときには提案・実行者はそこにいない。最悪だ。よく考えてみろ。」と言いたくなるケースばかりだ。大抵の場合、長期的、多角的視点に立てば、全く会社のためでも顧客のためでもない。
リスク検証の不在、短期的視野、自社または自部署しか見えていない狭窄的視野の弊害は、しっかり指摘し反論しなければなるまい。

安全で豊かな社会を築くためには「社会の規律」が不可欠である。
(中略)
ここで重要なことがある。この方向性を定着させるには、消費者、投資家、そして国民といったステークホルダーとそれを代弁する報道機関側にも、「官」に頼らず、自ら継続的に企業を監視していくという姿勢(市民の社会的責任:Citizens’ Social Responsibility)の自覚が必要ということである。

市民の社会的責任を果たさずして、不祥事企業や行政の不正を批判することはできない。