六線沢の羆事件と道庁

六線沢の羆事件は、吉村昭氏の名著「羆嵐(くまあらし)」で有名だ。

事件を要約すると「1915年(大正4年)、まさに羆(ヒグマ)のテイトリーに入植した北海道の開拓民集落がヒグマに襲われ、10名ほどが死亡または重体となった大惨劇」である。

事件の詳細は本書に譲る。

吉村昭羆嵐

羆嵐(新潮文庫)

羆嵐(新潮文庫)

ともかくも事件後、入植していた15家族は全員撤退して六線沢無人の地となる。

で、興味深いのはその後である。

終戦の翌々年、満州からの引揚者である六家族が道庁の指示で六線沢に入植した。かれらは大正年間にその地に村落が営まれていたことは知っていたが、廃村になった事情については知らされていなかった。(吉村昭羆嵐」)

そして彼らは入植してからかつての凄惨な事件と、事件後、六線沢付近で100頭近くのヒグマが猟師によって仕留められていることを知って、1家族を残し早々に六線沢から退散する。

残った1家族は相当豪胆だと思う。

現在、事件跡地は「三毛別ヒグマ事件復元現地」となっていて知る人ぞ知る観光スポットだ。現地に立てば「今にもヒグマが出てくるのではないか」とぞわぞわ浮足立たない人はいないだろう。
http://www.town.tomamae.lg.jp/section/kikakushinko/lg6iib0000000ls1.html

道庁は、なぜ六線沢への入植を指示したのか。

仮説1)事件は承知の上で、羆リスクは許容すべきと判断し入植を指示した。

まず時代背景である。

戦後、外地から日本への帰国者(引揚者と復員兵)は600万人を超えた。
そもそも、日本で食えないから満州などに新天地を求めた人たちが多かったわけで、敗戦後、焼け野原となっている日本にとって彼ら帰国者の受け入れは非常に厳しかった。
1947年といえば、かの有名な「山口忠良判事の餓死」が報じられた年であり、まだまだ多くの国民が餓死の危機に瀕していた時代だ。

大体、1953年からブラジル移民が再開されているのは、「日本国内ですべての人間に食い扶持を確保することは無理」という当時の国の状況判断を示しているだろう。

六線沢は水の確保しやすさなど、開拓地として、条件的に悪くなかったようだ。

そもそも北海道全体がヒグマの生息地域であり、人間が開拓という進出をすればこうした事件が起きるのはある意味必然である。
羆リスクは北海道全土にあり、「羆は開拓民が当然に負うリスク」と判断しなければ北海道の開拓なんてできなかっただろう。

また、あの事件は「異常な羆による突出した事件」という見方もある。冬に冬眠していなかったことも珍しいし、「そうそう異常な熊はいないから再びあれだけの規模の凄惨な事件が起きる可能性は低い」という判断はありだろう。

時代背景を考えれば、六線沢が羆が多い地域ということを考慮しても「全員飢え死にするよりも、(起きる確率も低く、仮に起こったとしても犠牲者数名規模の)羆リスクの方が遥かにましでしょ」というのは「妥当な判断」といえると思う。


仮説2)入植を指示した担当者は事件の存在を知らなかった

六線沢の羆事件は1915年(大正4年)のこと。
終戦の翌々年といえば1947年。事件から32年経過している。担当者がかつての事件を「知らなかった」としても無理もない。
道庁で開拓地の情報管理がどうなっていたか、具体的には「六線沢」(または六線沢を含む地域)のファイルが道庁の事務所にあったのかどうか。
まぁそれは当然あっただろうと思うが、それは入植を指示する際にどの程度参考にしていたのか。

・・・・

私は「入植を指示した道庁の担当者は事件を知らなかったが、例え知っていたとしても入植を指示したのではないか」と推測している。

私は六線沢入植指示について「(羆リスクとその対策についての事前説明さえあれば)”あり”な判断だったが、人間、感情の生き物だ。どうしても過去の事件の恐怖は払拭できない。事実、六線沢は羆の多い地域だし開拓民が退散するのも当然」という事例だと思う。

が、日本各地には「そこ、本当に人が住むには適さないから」みたいなリスクの高い土地というのはあるだろう。
過去、その場所では何度も水害で集落が壊滅しているとか。地元住民が「そこを住宅地として許可するなんて正気の沙汰とは思えん」というような。

そのような地を住宅地にしてしまって実際に水害やらで集落が壊滅したりしたら悲劇である。

被害にあって亡くなったり生活基盤が無くなったりする住民も痛ましい。
そして社会としてもそうした人々のサポートという負担が生じる。

「各地域のリスク情報」は各自治体できちんと体系的に管理されて活用されているのだろうか。