溝口健二監督「近松物語」

溝口健二監督「近松物語」は確かに名作だ。しかし、何度考えてもちょっと複雑な気持ちになる映画だ。


時は江戸時代。所は京都。若く美しいおさんは、武士同様の格式を持つ裕福な大店の内儀である。主人は商売はやり手だが吝嗇で、若い女中に手を出すような好色爺だ。おさんに金の無心に来る母と道楽者の兄。この縁組は、経済的に苦しいおさんの実家が、金銭的援助を当て込んで成立させたものだ。

おさんの立場は弱く、まるで実家から差し出された人身御供だ。
もっとも、一番理不尽に虐げられているのは、好色爺に手籠めにされつつ「奉公人は耐えるしかない」「腹に収めろ」と手代の茂兵衛に諭される女中のお玉だろう。

封建的身分制度社会、不平等は当たり前というわけで、江戸時代、こんなものなわけだが、やはりなんとも理不尽だ。


兄の借金の申し込みをどうしよう。という話をおさんが茂兵衛に相談し…内儀が奉公人に金の工面の相談って、そりゃ筋が違うし内儀失格でしょ、に始まり、茂兵衛が、主人の印を不正利用して金を工面しようとして同僚にみつかり…と、ダメダメな対応が積み重なる。
そして、あれよあれよという間に、様々な偶然も重なり、おさんと茂兵衛に不義密通の嫌疑をかけられ、2人は逃走する。共通するのは「もうあの家はいや」ということ。江戸時代の価値観的には、最重要とされる嫁ぎ先、奉公先の「家」が心からいやということだ。
といっても、もともと茂兵衛がおさんを「お慕い申して」おり、おさんも茂兵衛を憎からず思っているのは明らかだ。2人の逃避行は、おさんが割と強引に茂兵衛を誘っていて、おさんがイノセントな悪女にすらみえる。しかし、腹を決めてことにかかっているというわけでもなく、おさんは追っ手に動揺し、追っ手は振り切れないと心中を決意する。

有名な水上での小舟のシーンは彼岸の美しさだ。琵琶湖での入水直前の茂兵衛がおさんへ想いを告白し、おさんが「死ぬのは嫌や。生きていたい」ときっぱりとした生への希求へ転換する。

そして追っ手のかかる中、展望のみえない逃避行が続けられることになる。


恋愛というものが魅力的なのは、それが社会制度(当時の封建的身分制度)やしがらみを打破するような破壊力を持ちうるからだ。

このまま不義密通の嫌疑事件がなかったとして、おさんと茂兵衛の人生が「幸せ」であったかといえばそうは思わない。

おさんは厄介な実家を抱え、お金の引け目で弱い立場だし、茂兵衛は手代という奉公人の立場であり、出世したにしても身を粉にしてお店のため働くだけの人生だったろう。

2人とも、個人の幸福を追求するなどということは人生でついぞなかった可能性が高い。

しかし2人は、ひょんなことから、自らの意思で恋愛という「我儘」を押し通すことになる。

2人は茂兵衛の実家に逃れたものの、おさんは追手に捕まり、連れ戻される。

茂兵衛は捕えられたが逃げ出し(逃がした茂兵衛の父親は多分殺されただろう)、おさんのもとに向かう。

おさんの実家の場面は、母と兄がエゴ丸出しという意味でなかなかの名場面だと思う。
おさんの母と兄はとにかく婚家に戻るよう、激しく責めたてる。もともと、こんな事態を招いた発端は、母と兄の度重なる金の無心なわけだが、そこに言及はしない。
「帰れ」と吠える兄は正直者だ。おさんの母の説得がありがちでリアルだ。

「おっかはん、あんたの気持ち、よーお分かりまっせ」
どう分かってるんだ???
「大経師(おさんの婚家)や岐阜屋(おさんの実家)のためを思うて言うのと違いまっせ。大経師に帰ることが一番あんたの身のためやと思う」

これははっきり大嘘だ。正しくは「わてらのためにお願いだから帰ってくれ」だ。しかし、これと同じような台詞を聞いたことのある人も、言ったことのある人も、沢山いるだろう。「自分の都合のために他人に我慢を強いる」ことはなかなかあからさまに言えない。そして真っ赤な偽善が登場する。自己の保身のためなら、こんな台詞も真顔で言ってしまえるのだ。人間は。

そこへ茂兵衛がやってくる。再会した2人は、おさんの母の説得にもかかわらず、別れることをきっぱり拒む。
おさんは、実家のために生きる人身御供的な人生を拒むのだ。

そして不義密通の罪で市中引き回しの上、磔となることすら甘受する。
最後、2人は罪人として馬上にあっても晴れ晴れした顔で刑場に向かう。  


★★★

1954年のこの映画にある価値観は、江戸時代のものではなく、近代のものだ。
「個人が幸福を追求することをきっぱり肯定する」というメッセージが明らかで、私はこの作品がとても好きだ。


しかし、この映画を観終わったとき私は怒りさえ感じていた。何に?
茂兵衛役の長谷川一夫に。

まず、最初の登場シーンで「げげっ」と思ってしまった。
茂兵衛初登場は、「どうしても茂兵衛でないとあかん」という客がきた、と呼ばれて、病床から茂兵衛が起き上がるシーンである。茂兵衛は働き者の手代という設定のはずなのに、茂兵衛が起き上がった瞬間、「いや、この人、相当祇園で遊んでるでしょ。なにこのしたたるような色気」と思ってしまった。どうみても「貧しい山奥出身で丁稚奉公からたたき上げた働き者の手代」じゃない。

とにかく全編を通じて、長谷川一夫は、「自分をどう美しくみせるか」ということに注力している。
その意味では確かにプロである。一つ一つの所作も実に美しい。

しかし「作品や役を理解して表現する」という発想は彼にはない。

ラストシーンに至っては、引き回されている2人を仰ぎ見るかつての同じお店の奉公人の「お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。茂兵衛さんも、晴れ晴れした顔色で。ほんまに、これから死なはるんやろか」という台詞の後、馬上の茂兵衛の顔が映されるのだが、茂兵衛の顔は伏し目がちでちっとも晴れ晴れしていない。むしろドナドナだ。

どれだけ台本無視。

仮にラストの台詞がなくて長谷川のあの表情で終わったとしたら「おさんの恋情という狂気にひきずられた哀れな茂兵衛。ファムファタルにより破滅させられた男の物語」になってしまう。

それはそれでありな作品だ。
しかし台詞とそれに対応する表情がまったく違うというのは無しだろう。

私としては「折角の名作なのに。茂兵衛役が長谷川一夫なことで残念な作品に」と思ってしまったのだ。

「大人の事情」を考えると長谷川一夫の振る舞いは正しいのかもしれない。

二枚目スター長谷川一夫の起用は、社長命令で決まっていたことだったという。

映画は膨大な製作費がかかる。興行的に失敗することは極力避けたい。
集客したいからこそスターである長谷川一夫を起用したわけだ。
そして長谷川一夫ファンの女性達は当然「かっこよくて色気のしたたるような二枚目の長谷川一夫」を期待している。
むしろ、台本に忠実に「素朴で働き者の茂兵衛」を演じたら、期待に肩すかしを食わされた長谷川ファンから大ブーイングをくらっただろう。

茂兵衛という役を設定に忠実に表現するメリットは、長谷川一夫にも映画会社にもなかった。

自分に求められている役割は何かということを長谷川一夫は正確に知っていたし、それは溝口健二監督も同様だっただろう。

そう思うと、監督の意図ガン無視であっても長谷川一夫は正しい。

でも。

私は溝口健二監督が妥協なく撮った「近松物語」を観たかった。茂兵衛役はちゃんと「茂兵衛」であって欲しかった。そして、最後は晴れ晴れとこの世のしがらみから解放され、突き抜けた、ある意味での勝者であって欲しかった。
客観的に状況をみれば、2人はおさんの嫁ぎ先の商家を取り潰して借金をチャラにしたい、また、今ある利権を簒奪したい者どもの思惑にまんまと利用されて、さらし者にされ磔になる哀れな弱者である。
しかし、2人の主観としては違う。2人は例え社会の秩序を壊そうとも、周囲を破壊しようとも、己の意志を貫き「生きた」のだ、というコントラストがちゃんとみたかった。

未練がましくそう思ってしまう。


近松物語 [DVD]

近松物語 [DVD]