日本語上演・日本語字幕付の怪

オペラやミュージカルなどの言語付の音楽は、基本的には「はじめに言葉ありき」だと私は思う。

言葉の抑揚、文字数、言葉の順序を無視した音楽はどうしたって不自然だ。
しかし、原語を日本語に翻訳して音楽に無理やり当てはめるとどうしてもそうなってしまう。大体、日本語とは語順が違うのが致命的だ。
また、置き換え可能な言葉が日本語にはない場合も多いし、単純な言葉であってもその言葉の持つニュアンスや文化背景の違いが気になってしまう。

昔、こんな話を聞いたことがある
イタリアを旅行中、日本の時代劇がイタリアで放映されていた。最後、「さらばじゃ」の吹き替えが「チャオ」で「誤訳ではない。誤訳ではないけど違う」と思ったという。

挨拶一つですらこれだ。

翻訳上演では、どうしても言葉と音楽がちぐはぐで不自然な代物に成り下がってしまう。

音楽と一体感のない言葉で歌うのは、歌い手にとっても苦労なことだろう。

なぜわざわざ苦労して日本語上演をするのか。

その方が観客にとって分かりやすいから?
確かに、かつて字幕を舞台上に設置できない時代は、「日本語上映」の意味もあったかもしれない。
しかし、今は字幕があるので原語上演でも意味を追うことは全く問題ない。

そして更に意味不明なのは、これである。

「日本語上演・日本語字幕付」

日本語でも聴き取れませんから、ということだろうか。この場合、日本語上演の意義はどこにあるのだろうか。

★★★

そういえば、この自国語翻訳上演にこだわる劇場というのがロンドンにあった。

English National Opera
http://www.eno.org/

ここでプッチーニの「蝶々夫人」を観た。イタリア語の英語訳なら、両地域とも昔はローマ帝国だったわけだし、要するに同じヨーロッパ言語だし、それほど違和感はないだろうと思っていたのだが、それは大雑把すぎる予測だった。

イタリアオペラはやはりイタリア語の響きも含めてイタリアオペラたりうる。
日本語上演ならぬ英語上演でもやはり違和感があるのだ。

そしてENOも英語上演・英語字幕付きだった。要するに英語であっても聴きとりずらいということだ。


翻訳上演の意味がやはり分からない。

ちなみに、オペラの英語訳上演というのは、ENO以外ではあまり上演されないそうだ。
よって有名オペラであってもそれを英語で歌える歌手というのは限られる。
だから予定の歌手の体調不良などで歌えなくなったとき、代役の確保が大変だという。
確かにプッチーニモーツァルトなど、有名な演目ならばいくらでも歌える歌手はいる。が、英語でとなると、突然は無理だろう。


翻訳上演は運営側も苦労が多い。しかしその意義が見えないのだ。