9.11

2001年9月11日の夜、私はたまたまテレビを観ていた。

突如として、飛行機が世界貿易センタービル(WTC)の北棟、そして南棟に突っ込み、2つの棟が崩れ落ちる映像をただ茫然と観ていた。

あれがイスラム原理主義者による自爆テロだという情報は随分早くに報道されたと思う。

テレビを前にして、「今はただ 悲しい 悲しい 悲しい 悲しい 悲しい 」というフレーズだけが頭を占めた。

WTCで思いがけなく日常がいきなり断ち切られ、虐殺された人々の死も悲しい。

同時に、実行犯の置かれた状況も悲しい。
自爆テロなどというものは、追い詰められた弱者のやることだ。決して強者のやることではない。

私は1991年の湾岸戦争の映像を思い出していた。
当時、繰り返し流された開戦時の空爆映像は、まるで花火の映像のように美しかった。あの映像から、空爆やその後の攻撃で、無残に殺された市民、破壊された街を想像することは不可能だった。
アメリカの攻撃で出現したはずの悲惨な風景は、そして覆い隠された。

もしも私が湾岸戦争空爆などを体験したイラク周辺の一般市民なら、この飛行機がWTCに突っ込む映像をみて、「ざまあみろ(私たちの苦しみを思い知れ)」と心から思っただろう。
そして、この明らかに理不尽な惨劇を「ざまあみろ」と思ってしまったとしても「そりゃそうも思うだろう」と共感すら覚えてしまうほど理不尽に虐げられた人々がいるのはイラクだけではない。そのことがやりきれなく悲しい。


私はその時、ナイーブにもこう思ったのだ。

「これでアメリカ人は、自分たちの踏みにじってきた人々の存在に目を向けるのだろうか」

しかしながら、アメリカの人々の反応は私の予想とは全く違った。
アメリカは、ナショナリズムに傾倒し、復讐と攻撃の機運が盛り上がった。

ブッシュ大統領は「テロとの戦い」を宣言し、さっそくアフガニスタンに侵攻した。そして2003年、イラク戦争に進んでいく。

結局のところ、一体何が目的だったのか今一つ分からないこの捨て身の自爆テロ攻撃は、アメリカに復讐の情熱と憎しみを生み、戦争へと駆り立てた。

★★★

アメリカはあまりに巨大な国だ。アメリカという国が一つの意思をもつわけではない。大統領の権力も限定的なものに過ぎない(それでも私は9.11が起きた当時の大統領がブッシュだったというのは臍をかむほど残念なことだと思っている)。アメリカほど大きな国では様々な立場や団体、人の思惑が交錯し、コントロールは難しい。

恐らく、アメリカの軍産複合体(Military-industrial complex)は、例えマハトマ・ガンジーのような知性と意志力のある人物が大統領であったとしてもコントロール不能なほど膨張しすぎているのだろう。軍産複合体の関係者は「戦争が起こらないと商売にならなくて困る」という立場だ。
この9.11の「テロ」を誘導、または支援したアメリカ国内の勢力は確実に存在するだろう。世界中の人々が声にならない悲鳴をあげたWTC崩落の瞬間、「よっしゃ、成功だ!」「これで戦争が始まる」とガッツポーズを決めたアメリカ人は確実にいたはずだ。

大体、よく知られるように、アルカイダを生み育てたのはCIAだ。

ブッシュが真顔で「ならず者国家(rogue state)」などというたびに、いやいや、世界最大、最強の「ならず者国家」はアメリカでしょ。と内心、力いっぱいつっこまずにはいられない。


1991年の湾岸戦争は、私には弱い者いじめにしか見えなかった。
2003年、イラク大量破壊兵器を持っているとしてイラク戦争を開始した。しかし、当初から「そんなもの、ないんじゃね?」と世界中が懐疑的だった。そして結局、大量破壊兵器など発見できなかったというお粗末な結論がシニカルな失笑を誘った。イラク戦争で分かったことは、アメリカはとにかく、何が何でも戦争がしたいのだということだった。
2013年9月 シリアで化学兵器が使用された、などという理由でアメリカはシリアを攻撃しようとしている。

将軍様ならぬアメリカ様か。

軍事的攻撃は一向に状況の改善につながらず、泥沼化することで、アメリカも人的にも財政的にも大きなダメージを受けるリスクは分かりきっているはずだ。それでもアメリカは戦争に向かう。

国家が軍事力を保持した場合、結局、軍事力を使いこなすより、軍事力に振り回されて自爆する可能性の方が高いのではないか。

世界で最も優秀な人材の集まるアメリカですらコントロール不能の有様に陥っているようにみえる。

本当は、それなりに長い時間がかかるにしても、軍事産業からの脱却こそ目指すべき方向なのではないかな、と思う。
所詮、軍事力は外交の一手段に過ぎない。そしてその手段はリスクばかり高い。