サラリーマンの肖像

NHKが1961年に放送した『日本の素顔〜サラリーマン〜』がなかなか面白い。

・サラリーマンについて、明治時代に始まる新中間層と位置付ける。
・サラリーマンの立場は「経営補助者」と「生産労働者」の間を揺れ動く。

「経営補助者」とは何だろう。経営者側に立つ人ということだろうか。しかし古くは女工の監督者などの「経営補助者」も生産労働者同様、雇われた者(被雇用者)であることに変わりはない。基本、サラリーマンは「生産労働者」と同様のポジションななずだ。

・1960年、650万人のサラリーマンが存在する。

ここでいう「サラリーマン」とは被雇用者のうち大卒の男性正規社員を指しているようだ。
実際、入社式も職場風景も男性のみで構成されている。なるほど男女雇用機会均等法以前の世界である。もっとも今でも多くの企業の入社式の風景は、制服のようなスーツの新卒のみという行き過ぎた同質性が気持ち悪いことに変わりがないが。

・サラリーマンは終身雇用

1960年において、サラリーマン=終身雇用というのが社会認識であったようだ。

・余暇の楽しみがサラリーマン一般のものとなったことはまことに結構

番組で共同で車を購入して休みにドライブに出かける同僚グループが紹介されている。
確かに週1日は休日があるなど、江戸時代の奉公人には考えられなかったことで本当に結構なことだ。産業革命にはじまる技術革新が、労働時間の短縮と余暇を可能にした。

・「サラリーマンが求めるものは趣味にあった快適な生活」(このフレーズは番組中、複数回登場した)
・なぜサラリーマンとなるのか?→「生活のためですかね」「(サラリーマンは)仕事はつまらないが生活の安定(終身雇用)が魅力です」

日本が熱かった時代、高度成長期の1961年であるにもかかわらず「組織でしか成し得ない社会的インパクトの大きな仕事をするため」とか「24時間戦えますか的ニュアンス」は登場しない。
番組の中では「今は明治のフロンティアスピリットは失われている」と表現されている。明治時代を比較対象にもってきているのがちょっと意表をつかれる。

若者の安定志向というのは最近の話ではなく、60年代の若者にも当てはまる話のようだ。
こうしたコメントのチョイスは番組の作り手の価値観やバイアスがかかるにしても、これこそ大多数の一般サラリーマンの実像だっただろう。

また、番組はサラリーマンをホワイトカラーと位置付けているが、ここでのホワイトカラーの定義はもしかしたら「読み・書き・そろばんの出来る事務職」ということかもしれない。

ただし同時に、

労務管理年功序列から能力主義

とも言われていたのにはちょっと驚いた。21世紀になってもほとんどの日系大企業は相当に年功序列ですが、と。思うに終身雇用や年齢給の大きい給与体系と能力主義は併存しないということを日本の大企業は実証したのではなかろうか。


★★★


2011年、いわゆる正社員は3,164万人、いわゆる非正規社員(派遣、パートなど)は1,739万人。雇用されている労働者はあわせて4,904万人。サラリーマンとは1960年代とは定義が違い、性別学歴を問わずいわゆる正社員を指すとすると3164万人だ。
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/11/dl/01-1.pdf#search='%E8%A2%AB%E9%9B%87%E7%94%A8%E8%80%85%E6%95%B0+%E6%88%A6%E5%BE%8C+%E6%8E%A8%E7%A7%BB'

そして現在のサラリーマンの多くも1960年同様、「サラリーマンとして働くのは生活のためですかね」「趣味にあった快適な生活がしたいですね」と思っていることに変わりはないだろう。「趣味にあった」という言葉の意味するところは不明だが、仕事第一の生活を志向していないことは確かだろう。仕事に対してそれなりに誠実で向上心もあるとしても、だ。

時代を問わず、これが「サラリーマンスタンダード」または「多数派サラリーマンの実態」というやつではないだろうか。

短期ならともかく長期に渡って仕事至上主義の生活を送ることに快感を覚え、なおかつスーパーマンのような体力と能力のあって高度な業務がこなせる人たちというのはごく一握りだ。

ついでにいうと、日本以外の国も同じだろう。

こうした多数派サラリーマンが今までのように不相応に出世するのは間違いだ。それが可能であったのは高度成長期という特殊な時代だけだ。
しかし同時に、こうした多数派サラリーマンの普通の価値観は否定されるべきものでもない。

ある個人が「自分はつまらない多数派サラリーマンになりたくないものだ」と思うことはとても素晴らしいことだが、「皆、仕事に生きがいを見出し、仕事を通じて成長すべきであり、こうした多数派サラリーマンになるべきではない」と考えるのは無理がある。無理のある社会というのは持続可能な社会ではないだろう。