千日デパートビル火災

「千日デパート火災」とか呼ばれているが、正確には「千日雑居ビル火災」だ。ここは百貨店ではない。


1972年5月13日の火災である。
普通なら記憶の彼方にうもれそうに古い話なのに、いまだ有名な火災であり続けているのは、ひとえに、大阪ミナミの繁華街ど真ん中で起こったからだろう。大阪で、千日前を通らずに過ごすことはまずない。

千日デパートビルの跡地は2001年から「ビックカメラなんば店」となっている。
店前は大きな交差点で、ぼんやりビックカメラを見上げながら信号待ちをすることも多い。
するとどうしても自然と思い出してしまうのだ。あの凄惨な火災を。

火事は夜10時30分ごろおきた。

出火は3階。電気配管工事中だった。

午後10時30分ごろ 3階でガラスが割れて炎が上がる(火事が発見される)。
午後10時40分   119番
午後10時43分   黒煙のため消火断念。保安員等避難。

出火原因はタバコの火だったと推測されている。「勤務時間中に工事現場(職場)でタバコなんか喫うなよ」と思ってしまうが、時は昭和。当時の男性喫煙率は約80%。「タバコはバケツに水を用意して喫えよ」がせいぜいか。

★★★

千日デパートビルの7階は、「プレイタウン」というキャバレーだった。火事当時、プレイタウン店内にはホステス78名、客57名を含む181名が滞在していた。

まず、たまたまエレベーターホールにいたホステス2名と客1名が煙をみて「火事だ」と判断して、北側エレベーターに乗り込み避難している。彼らがエレベーター乗り込んだ時には、白い煙ですぐそばのクロークすら見えなかったという。

クローク係は、白っぽい煙を目撃するとエレベーターの故障と思い、隣の電気室へ行く。電気室の窓を開けると外から黒い煙が侵入。クロークに逃げ戻るが、すでにクロークも煙がたちこめ、手探りでないと動けず。やっとクローク後ろのB階段に通じる扉を開き、かろうじて避難。

この4名の初期避難者、助かったのは、明らかに「たまたま避難しやすい場所にいた」という幸運が大きい。それでもこのギリギリぶりだ。

とにかく「あれ?煙だ」(10時39分から40分)から「煙であたりがみえない」(10時42分から43分)まで、3分くらいという時間のなさだ。

ただ、初期対応に、的外れだったり不適切な対応が多かったのは痛恨である。

午後10時39分ごろ フロア北側の従業員ら、ダクト開口部から煙が流れ出しているのを発見。煙の出ている方向に消化液をかけたり、バケツリレーで水をかける。

煙に水をかけても無駄。徒労。ダクト開口部からの煙なのだから、「こりゃ階下の火事だ」と早めに判断できたら貴重な時間の浪費せずにすんだのに。

午後10時40分すぎ 火事に気付いた支配人が、煙が薄く立ち込めるホールをみてアーチ(フロア入口)とクロークのなかほどに立つ。
エレベーター昇降路からの煙はまだ強くなく、客とホステス7、8人がエレベーターを待っていた。

…なんでエレベーター待ってんねん。
ここで支配人かホステスかが「B階段で避難しよう」と指示あるいは提案していれば(避難指示の義務は支配人にあり、ホステスにはないが、誰か頭の回転が早くてリーダーシップのとれるホステスがいれば)。このときエレベーターホールにいた7,8人は無事に早期避難ができただろう。


実はクローク奥にあるB階段が唯一安全な階段だった。この階段はどの階でも売り場とは遮断されている。1階でもカギはかかっていない。プレイタウン専用の特別避難階段である。ただ、クローク奥にある上、非常口の表示は布で覆われていて、客はその存在を知るすべはない。
しかしながら、「ホステスたちは午後11時過ぎのエレベーターラッシュ時には、B階段で降りるよう指導を受けていた」。つまり日頃からB階段を使っていたのである。

【7階平面図】

図出典:「特異火災事例・千日デパート」 消防防災博物館
http://www.bousaihaku.com/bousaihaku2/images/exam/pdf/a077.pdf

午後10時44分ごろ 昇降路からの煙はすでにアーチから南側フロアいっぱいに広がり、アーチ(フロア入口)からはクロークやエレベーターに至る通路は全く見えなくなっていた。

午後10時49分 停電。
この後、一酸化炭素中毒で昏倒、絶命する人が続出する。

★★★

この千日デパートビル火災で、もっとも印象に残る生還者は「36歳のホステス」である。

ホールにいた彼女は、急に苦しくなりトイレに走る。トイレで嘔吐したあとハンカチを水にぬらして口に当てる。照明が消えて暗闇となったが、煙で息苦しい中、腰をかがめて目をつむり、ハンカチで口を押さえて這うようにしながら、壁伝いに進む。意識はもうろうとしていたが、いつも帰宅の際に利用しているB階段をめざす。そのうちクロークにたどり着き、さらに這って階段に出る。10時50分ごろだ。煙にまかれないようゆっくり降り、1階にたどり着いた。

「生還する」という強い意志と精神力、「ハンカチを濡らして口をおさえる」という火事対応の知識に基づく適切な行動、もうみんながB階段に近づくことも諦めた時点で「B階段をめざす」という勇気。

彼女が生還できたのは、幸運より彼女の意思と能力によるだろう。この状況で助かったとは、「この人、すごいな」というのが率直な感想だ。

★★★

はしご車により、50名が救助されたものの、この火災で命を落とした犠牲者は118名。
命が助かったのは63名。ただし、重傷者多数。その後、長くにわたって治療が必要な者も、後遺症が残った者も多くいた。

もしも。
支配人、クローク係、ボーイ長、ボーイ、ホステスたちに「ビル火災の際は、B階段こそがプレイタウンの避難経路」という認識があったら。

もしも。
7階に救助袋の正しい使い方ができる人がいたら。

死者数や負傷者数は遥かに少なくなったはずだ。

こうした高層ビル火災は頻度は稀になったものの、今だって可能性はある。

千日前を通りかかると「やっぱ避難経路の確認と避難シミュレーションはいつでも必須だわ」と、寺門ジモンのようなことを思いながら交差点を渡るのである。


【参考】
岸本 洋平「煙に斃れた118人―千日デパートビル大惨事から30年 (近代消防ブックレット)」

煙に斃れた118人―千日デパートビル大惨事から30年 (近代消防ブックレット)

煙に斃れた118人―千日デパートビル大惨事から30年 (近代消防ブックレット)

【関連エントリ】
2017年6月25日「大阪科学技術センタービル火災」

【備考】
こちらのブログ、おもしろい。このブログで紹介されている助かったホステスさんもかなり頑張ってる。
きうり「事故災害研究室ー千日デパート火災(1972年)」
http://p.booklog.jp/book/8921/page/128449