部活と顧問

たまに「○○部の顧問になりたくて高校教師になった」という人がいる。で、圧倒的な実績を残し、多くの教え子に慕われて教師生活を終える。それは幸福な人生だと思う。

でも、一般的に中学、高校のの部活動には問題点が多すぎる。

「中学ではすべての生徒が部活に参加義務」とか、「部活の顧問はその学校の教師でなければならない」とか、「教師は部活の顧問は必ずならなければならない」とか「教師の部活顧問はボランティア」とか、よくある話だが、かなり無理があるし、生徒にとっても教師にとっても幸せな状況ではない。

まず、高校で教育実習に行った時のことを思い出す。
真面目で熱意ある、とある先生が、放課後も休日も部活に費やしているのをみて、頭が下がる思いがした。
どう考えてもその先生にプライベートタイムはない。

しかし、教師だからといって、すべての時間とエネルギーを生徒に捧げるというのは、どうなのだろう。それは称賛すべきことなのだろうか。ちょっと考え込んでしまった。

次に中学時代を思い出す。
いかにも真面目そうな、でも、運動が苦手そうな新卒の男性教師がソフトボール部の顧問になった。というか、実体としては、顧問となることを命じられた。

ソフトボール、全然知らないから」と『ソフトボール入門』みたいな本を買って勉強している姿は、人としては好感を持ちはしたが、同時に「そんな付け焼き刃で指導ができるのか、疑問」とも思った。

そもそもスポーツの素地さえないのに、普通に無理だろう。

次に高校の頃を思い出す。

とある高校のバスケ部には、事実上、顧問がいなかった。
運動部の顧問が出来る教師より運動部の数の方が多かったし、また、教師にバスケ経験者がいなかったのだから仕方がない。

他の運動部の顧問が、数日間、練習計画のつくり方や基礎的な体力トレーニングなどを指導して、あとは生徒の自主運営だった。
それでも楽しい部活動は成立していたし、生徒の主体的活動というのは、それはそれで価値があるとは思う。
でも、優れた指導者なしで、一定レベル以上、上達することは難しいだろう。そのバスケ部は、そこそこの成績は挙げていたが、指導者不在の体制で、例えば、全国大会などに行くことはまずありえない。優れた指導者なしでトップクラスの成績をあげるというのは、通常はおとぎ話だ。


また、とある野球部員の卒業スピーチを思い出す。
どれだけ自分たちが努力を重ねたかを熱く語ったあと、「でも、一回戦で負けた」。次の年も「でも、一回戦で負けた」。彼ら野球部が弱小なことは知っていた。しかし、彼らがそんな情熱を傾けて部活に励んでいたとは知らなかった。

彼の熱弁を聞きながら思った。

「それ、絶対、めっちゃ練習方法が間違っとるな」。


自分の経験から確信していることがある。

「間違った方法でいくら努力しても上手くはならない。時間の無駄」

「下手な指導者の下では決して上手くなることはない」

音楽でもスポーツでも指導の技術というものがある。

音楽にせよスポーツにせよ、そこそこの資質と才能があったとしても「まったくの独学で上手くなる」というのは、無理だ。変な癖がついてしまう。

音楽など、生徒の頑張りというより、指揮者の力量がもろに成績に反映する。なにしろ、指揮者次第で全く引き出される音色も音楽も違ってきてしまうのだ。
正直、能力不足の教師(指揮者)のもとで部活動をするくらいなら、学生指揮者制度にした方が生徒の自主性が引き出されていいと思う。時たま、教師を凌駕する才能ある生徒もいるし。


自校の教師に顧問を限定するのは、あまりに無理があるのではなかろうか。

一流プレイヤーが必ずしも一流の指導者になれるわけではないが、しかし、そのスポーツや音楽、楽器を「まったく出来ない」人が指導をできるわけはない。

大体、見本を見せられないのは痛い。

でも、英語や数学の教師になるのに、スポーツや音楽の指導技術は必須とされていない。「スポーツも音楽も全くダメ」でも教師になることはできるし、本来、部活の指導は教師の義務ではない。

部活の指導者を、その学校の教師で賄おうとしていることに無理があるのではないか。

もっと幅広く、スポーツや音楽の専門家が、指導者として部活にかかわることはできないのだろうか。

サッカーなどは、指導者育成と指導者の公認の交付を行っている。
http://www.jfa.jp/coach/

あと、部活の指導がボランティアというのはいただけない。部活の指導者、コーチに支払う予算ががっつりあるべきだと思うのだ。

公立中高で部活を盛んにすることはいいと思う。
でも、折角の貴重な十代の時間を、間違った、あるいは、無駄な努力に費やすのはあまりにももったいない。