現代美術 何を残し何を廃棄するのか

東京都現代美術館がおもしろい。
http://www.mot-art-museum.jp/
建物自体もすでに現代美術で一見の価値あり。勿論、展示も充実している。

なぜ江東区清澄白河などというアクセスしにくい上、地盤も緩すぎの高リスクな土地に建っているのか。立地に納得できないが、東京の貴重な財産である。

さて現代美術である。

その時代の空気感やメッセージがあったり、様々な新しい技術、素材を使っていたりして、それが面白い。

しかし、展示、収集するのはいいが、「何を(お金をかけて)残し、何を廃棄するか」という問題も抱えている。

1.「ださい」「古臭い」作品群

発表された時代においては「なるほどね」と共感を得られる時代背景があっただろうが、今見ると、意味不明だったり、古臭さが漂ってしまう作品というのはどうしてもある。

そもそも、戦後、昭和の日本というのは、基本、垢抜けなくてダサいのだ。「頑張ったね」という生あたたかい眼差ししか注げない作品が沢山あるのは致し方ない。

しかし、明らかに稚拙な作品が、痛々しくも生々しく鮮烈に、その時代の空気を切り取っている場合もある。例え稚拙であっても「時代を表現した作品」という視点から高い評価が可能かもしれない。

かように評価の視点は様々だ。

「ださいB級品」は、誰がどのような基準でそう判断を下し、切って捨てるまでにどんな経過をたどるべきなのか。

2.保全が困難または非常にコストがかかる作品

例えば、ブラウン管テレビを使った作品群がある。テレビの寿命はそう長くない。長くてもせいぜい20年、30年だ。そしてブラウン管テレビはもう製造されていない。故障しても部品もなければ問い合わせ先も消滅している。保全の基盤が無くなっているといってよい。

テレビなぞは作家自身も「長期保全は無理」と分かっているだろう、と思う。

実際には、「予想に反して劣化していく」「意外に保全が難しかった」あるいは「そもそも製作者が長期における作品の変化など一切考えずに造っている。しかし、自分の作品が廃棄されたようものなら烈火のごとく怒りそうな高名な芸術家が造った作品」とか、まぁ、色々あるだろう。

しかし、「芸術?なにそれ、食べられるの?」という代物にそうそう大金(公金)を費やすわけにはいかない。

「1年あたりの保全コストがいくらを上回ったらセールに出す。売れなければ廃棄」というようなルールがあっていい。

3.そもそも保存が無理な作品もある

「瞬間の芸術」というものもこの世には沢山ある。
料理、音楽、バレエ、ダンス、演劇、花火など。

美術でも、生の植物などを使っていると「これは瞬間のアートだな」と分かりやすくていい。
生け花(フラワーアート)など、まさに瞬間のアートだ。

「この作品は“瞬間のアート”だった」というのが後から分かったりするのも現代美術特有の現象かもしれない。

現代の美術作品にはプラスチックや塩化ビニールのように、長期保存には適さない都沿いも多用されています。後に続く世代にも現在と同じ環境で作品を楽しんでいただくために、工業製品や劣化しやすい素材を用いた作品を、どう保存し後世に伝えていくかが、いま美術の現場では大きな課題となっています。
東京都現代美術館「コレクション・ビカミング」)

原則、作品の寿命がきたということで廃棄でいいんじゃないの?

例えば、音楽だったら楽譜と録音が残る。料理はレシピが残る。
現代美術も寿命が来たなら、そうした記録だけ残せばよいのではないだろうか。



★★★

あともう一つ。

「作品のバージョンアップ問題」もあるかもしれない。

当時の最先端の技術を使った作品が劣化、あるいは古臭くなった場合、今の技術を使ってバージョンアップするにはどういう手続きが必要なのか。

作者の許可は必要か。作者が亡くなっていたら遺族の許可があればよいのか。
それとも所有者が「バージョンアップが必要」と判断したならば作者に仁義を切らずにバージョンアップしてよいのか。なんとなく「それはダメ」な気がする。

大幅なバージョンアップをした場合、作者は、オリジナルの作者に加えて、バージョンアップを手掛けた人も併記するのか。

そういえば「作品は誰のもの」なのだろう。