広島の戦災孤児

ずっと気になっているテーマがある。

1945年の終戦後、戦災孤児は、一体、どうなったのだろう。

当時、空襲で多くの都市が焦土と化した。空襲の中、親が死に、あるいは親とはぐれ、孤児になった子どもは当然いただろう。
携帯電話もインターネットもないあの時代、大体、行政も混乱し機能不全に陥っていたあの時代、孤児として町に放置された子どもは相当いたはずだ。

また、戦中、学童疎開も全国で行われていた。疎開児童は40万人と言われる。
疎開中に家族が空襲などで全員死亡してしまった例も多かったはずだ。

実際、街中で物乞いをしていたり、靴磨きをしていたり、路上にたむろし路上で寝起きしている戦災孤児の写真や映像は数多く残されている。こうした子ども達は、一体、全国でどれだけいて、彼らはどうなったのか。

とある本に、戦災孤児に関する優れた証言が載っていると聞き、手に取った。
そこには、自らも原爆孤児であった川本省三氏による貴重な証言があった。

正直、私自身、「戦災孤児に関して、白眉と思われる証言が載ってる」という意味の推奨を聞かなければ、手に取ることはない本だったし、この本が、今後メジャーになることもないだろう。ちょっともったいない。折角なので、紹介したい。

以下、引用は、創価学会広島平和委員会編「男たちのヒロシマ ついに沈黙は破られた」による。

「当時、疎開した広島の小学生は8,600人。そのうち2,700人が孤児となったが、孤児院に収容されたのはわずか700人。正確な数字は不明だが、残った2,000人は町に放置され浮浪児となったことになる。」

終戦後、広島の町には浮浪児があふれていた。2,000人もの小学生が保護者もない状態で町に放り出されていた、というのは驚愕する。

「夜になると帰るところのない彼らです。橋の下やビルの焼け跡の隅、防空壕などしかありません。そこで、5,6人ずつ着の身着のまま固まって眠りました。

 それは、一つの「グループ」とか「仲間」ではありません。寝るときくらいは固まっていた方がいいだろうという程度の集団でした。朝になると、それぞれ勝手に自分の食べ物を探しに出かけるのでした。

 浮浪児たちは、食べ物を入手するため、食べ物の露天商を狙いました。女性や老人が出している店です。まず店頭の餅を掴んで逃げる。それを店主が追いかける一瞬の隙に、ほかの子どもが次々に餅を盗むといった具合です。盗む方も必死。いつまでも手に持っていると危険です。次の瞬間にほかの孤児たちに狙われます。ですから餅を盗むのと口に入れるのは同時です。小さい子は大きい子に横取りされます。飲み込む前に口をこじ開けられ、取り出されて食べられてしまう。まさに餓鬼そのものでした。」

「グループ」も「仲間」もない。すなわち集団に属するという社会性もない、食べ物を取り合うだけの餓鬼そのものの生活。
浮浪児となった戦災孤児達は、確実に戦中より戦後の方が過酷な体験をしている。

「原爆投下の翌月には、枕崎台風が広島を襲いました。橋の下をねぐらにしていた多くの浮浪児が流されました。」

枕崎台風により、広島県では1229名の死者と783名の行方不明者が生じている。
このうち、浮浪児が何人含まれていたのか。というか、浮浪児が行方不明になっても把握できない。よって、統計に含まれていない行方不明の浮浪児もいそうだ。

あふれた浮浪児の面倒をみたのは暴力団のお兄さんたちでした。

バラックを建て、二階に自分たちが住んで、階下は家畜小屋のような状態で浮浪児が雑魚寝していました。寝場所と食料を提供する見返りに、浮浪児を働かせて、その稼ぎをピンハネするのです。かっぱらいぐらいしかできない小学生は一人では生きていけません。

暴力団のお兄さんが斡旋した仕事は、靴磨き、メチルアルコール売り、ヒロポン売り、再生たばこ売りだったという。

「ただ、売上金はすべて巻き上げられてしまいます。それでも浮浪児たちが逃げ出さなかったのは、食べて寝られたからです。こうして孤児たちは何とか生き延びることができたのです。」

 
暴力団が「面倒をみた」と言っても、目的は労働搾取。売上金をすべて巻き上げるというのは、酷い。暴力団は弱者の搾取を行っていたわけで、決して誉められるようなことをしていたわけではない。

しかし。

「町中にあふれた孤児たちは、小さい子からどんどん死んでいきました。

食べ物を持っているのを見つかると大きい子に取り上げられてしまいます。口をもぐもぐ動かしているので、押さえつけて口をこじ開けてみたら小石だったという話さえあったものです。

病気になりぐったりしていても誰も気にしません。死んだらいち早くその子の衣類を剥いでしまいます。だから、路上で死んだ子はたいてい裸でした。

暴力団のお兄さんに拾われた孤児は助かったのです。」

言葉を失う地獄絵図だ。どれだけ子ども達は悲惨な状況に放置され、死んでいったのか。

そしてそんな中、暴力団が子ども達に生きる道を提供した。暴力団がなければ死んでた、暴力団のおかげで生き延びることができた子がいたのも事実なのだ。

「この事実は、ほとんど知られていません。町中に放置された孤児たちの実像がまったく伝えられていないのです。「孤児」という場合、「両親をなくしてしまった子」と理解され、孤児院などの施設に収容された子どもたちをイメージされることが多いようですが、実際には、施設の孤児を大きく上回る数の孤児が浮浪児となっていたのです。」

戦災孤児で生き延びた子は、ほとんどが(相対的に恵まれた)施設に入ることができた子だと言われる。
しかし、実は彼らは孤児のマイノリティだ。

多くの子どもが町に放置され、死んでいった。一体、何人が死んでいったのか。施設の孤児より遥かに浮浪児の方が多かったのだから、「町で野垂れ死にした子ども」の方が、施設に入った子より多かった可能性が高い。

暴力団に拾われた孤児というのは、どのくらいいたのだろうか。しかし、そんな圧倒的弱者かつ搾取される者という立場に置かれ、大人になるまで生き延びることはそれなりに困難だっただろう。また、大人になって安定した固い職につけた可能性もどう考えても低い。長じて暴力団員となった者、ならざるをえなかった者も多かっただろう。

多分、山谷や釜ヶ崎の日雇い労働者には、元戦災孤児達が多かったのではなかろうか。


路上生活が長いと、精神的に荒む。また内面で壊れてしまうものもある。そして、回復が困難なケースもある。

戦後、戦災孤児達へのフォローはあまりに薄かった。


創価学会広島平和委員会編「男たちのヒロシマ ついに沈黙は破られた」

男たちのヒロシマ ついに沈黙は破られた

男たちのヒロシマ ついに沈黙は破られた