被差別部落ならぬ被差別区か

東京都の、とあるところにちょっとしたお屋敷エリアがある。戦前からの由緒ある高級住宅地だ。そしてそのすぐそばには、平和で雰囲気のいい下町商店街がある。
たまたまだが、その高級住宅地と下町商店街は行政区が違う。高級住宅地はA区、下町商店街はB区である。

「A区の母親は子どもに、B区の子とは遊ばないようにって言うらしいわよ」

うっわ。こわ。

B区は被差別部落ならぬ被差別区か。

A区に本当にそんなことを言うような痴れ者が住んでいるのか分からない。濡れ衣かもしれないのでA区の名誉のために匿名とする。
しかし、「らしいわよ」などと言ったS区の高級住宅にお住まいのマダムは、A区に住んでいたら子どもにそういうのだろう。そんなニュアンスを感じた。

これっていわゆる「部落差別」でしょ。随分と広大で人数の多い「部落」だが。

B区は衛生面で問題があるとか、ラリった暴力団関係者が徘徊していたりして治安に不安を感じるとかなら、「差別」も理解できる。それにしても「子どもと遊ぶな」はないと思うが、もしそんな状況ならば「B区に行くな」とは私も言うだろう。
誰しも、我が子にはできれば感染症にかかって欲しくないし、事故にあって欲しくもない。我が子を不必要に危険にさらしたくないと思ったとして責めらるものではない。

実際、1960年、1970年代までの被差別部落はそうした問題を抱えたところもあった。(だからこそ、同和対策事業特別措置法が1969年に成立している)。
あの当時の部落差別は個々人レベルでは、ある程度やむを得ないものもあった、と思う。
「差別はダメ」という理念より先に、現実問題としては被差別部落の差別されるような衛生面や環境、教育などの周囲との格差の解消に取り組むことが重要だっただろう。と私は思う。

差別ゆえの貧困。貧困ゆえの差別。そんな負のループがあった。その断ち切り方の方法論については色々あるだろう。

しかし、である。そんな負のループがあるわけでもない、今日の平和で清潔で真っ当な商店街を差別とは。

どんな感覚?どんな思想?

もうお手上げに理解できないのだが、そうした差別主義者が一定の社会的影響力を持っているとなれば無視というわけにもいくまい。

バカにつける薬ならぬ差別主義者につける薬は何だろう。

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2013年7月29日 ありふれた政治手法としての部落差別