部落差別というものを初めて怖いと思った

東日本に生まれ育った私は、部落差別を自ら見聞したことはない。
学校に同和教育はあったが、具体的に「あの地域は…」とか「あの人は…」とか聞いた経験はないのだ。いや、あるといえばあるのだが

大体、いまどき「同和」という言葉自体、古すぎだ。
「同和」というのは「(被差別部落民も)同じ日本人だよね」という意味である。そもそも江戸時代に意図的につくられたり政治利用された「穢多・非人」という被差別階級に属した人々は、風俗、宗教や思想のあり方が違うわけではなく、基本、「同和」には何ら難しさはない。*1
否応なく国際化の進む今日、文化背景の違う人々と「同じ人間」ということを前提にしつつも、違いを受容していくことが課題なわけで、こちらの方が余程、難易度の高い問題だ。

戦後の部落解放同盟などの取組みは、貧困問題とその対策を考える上でも非常に示唆に富み興味深いのだが、それにしても「21世紀になってまで同和じゃないだろ」と、私は同和というものについて、どちらかといえばうんざりした感情を持っていた。
実際、同和対策事業特別措置法(1969年成立)も2002年に終了している。
確かに1960年代、70年代までは部落差別はあっただろう。しかしもう終わった話なのだ。というのが基本的な私の認識だった。

ところが、である。
2012年10月、私は生まれて初めて部落差別というものに恐怖を感じた。

それは電車の中吊り広告だった。

「ハシシタ 奴の本性」
「救世主か衆愚の王か ハシシタ 橋下徹本人も知らない本性をあぶり出すため、血脈をたどった!」
週刊朝日2013年10月26日号)

私は反射的に恐怖を覚え、こう思ってしまった。
「うっわ。有名になるとこんなことを書かれるのか。やっぱり目立たないように生きないと(ものすごい悪意にさらされたり怖い思いをしたりする)」。

この扇情句、「本人も知らない」というところがまた怖い。
この日本に「自分は被差別部落とは関係ない」と断言できる人などほとんどいないだろう。

今日、日本人の大部分は都会に出てきて核家族で住んでいる。県を超えた婚姻も普通なわけで、100年以上前の出身地などほとんどの人が分からなくなっている。
考えてもみよう。仮に出身が被差別部落であったとして、わざわざそれを配偶者や子どもに言うだろうか。
先祖は農民だった。商人だった。武士だった。役人だった。などと親などから聞いているとしても、それが本当とは限らない。また、地域により「農民で被差別部落」などという場合もあった。

なかには江戸時代からがっつり地縁血縁の濃厚な土地にある家に生まれ育ったという人もいるだろうが、その場合も、祖先に穢多・非人であった人はいなかったと断言することはできない。
江戸時代、犯罪者や心中の生き残りなどは非人という身分に落とされた。ひょっとしたらそういう祖先がいないとは限らない。
大体、そういう人は「なかったこと」にされて語られなかったりするものだ。地域の大スキャンダルをその一族の子孫は知らないとか、ありがちな話だと思う。家系図があったとして、そこにない名前が実は存在するかもしれない。

橋下氏という特定の個人の話ではなく一般論として言う。
志を持って政界に入り、議員という公人になったとして、「本人も知らない」、どうでもいい、本人に何の関係のない過去を扇情的に穿り返されてはたまったものではない。

まったくのところ「本人も知らない」先祖の話に何か意味があるのか。というか、被差別部落の出身だからなんだというのだ。血統は批判の根拠になりえることではない。ましてや人格否定、攻撃は許されることではない。
橋下氏について語るべきは、その推進する政策や公的な言動だ。彼は政治家なのだから。

あの中吊り広告は言うなれば違憲な存在である。

日本国憲法

第14条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

私は件の記事は読んでない。読む必要はさらさらない。この中吊り広告は正に「いわれなき差別」と「差別の恐怖」を煽っている。

翌週、「週刊朝日」は謝罪文を掲載した。

おわびします
編集長 河畠大四

 本誌10月26日号の緊急連載「ハシシタ 奴の本性」で、同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました。タイトルも適切ではありませんでした。このため、18日におわびのコメントを発表し、19日に連載の中止を決めました。橋下徹大阪市長をはじめ、多くのみなさまにご不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことを心よりおわびします。
 編集部にも電話やメール、ファクスなどで、「差別を助長するのか」「チェック態勢はどうなっているのか」といったご批判の声が多く寄せられました。ご意見を重く受け止めています。
 この連載は、編集部がノンフィクション作家・佐野眞一氏に執筆を依頼しました。今年9月に「日本維新の会」を結成してその代表になり、次の衆院選では、第三極として台風の目になるとも言われる政治家・橋下氏の人物像に迫ることが狙いでした。差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたが、不適切な表現があり、ジャーナリズムにとって最も重視すべき人権に著しく配慮を欠くものになりました。
 この記事を掲載した全責任は編集部にあります。記事の作成にあたっては、表現方法や内容などについて、編集部での検討だけではなく、社内の関係部署のチェック、指摘も受けながら進めました。しかし、最終的に、私の判断で第1回の記事を決定しました。
 多くの関係者を傷つける事態をまねいたことについて、深く反省しています。読者のみなさまにもご迷惑をおかけしたことをおわびします。 今回の反省を踏まえ、編集部として、記事チェックのあり方を見直します。さらに、社として、今回の企画立案や記事作成の経緯などについて、徹底的に検証を進めます。
http://publications.asahi.com/news/276.shtml

私の読解力では「同和地区を特定したこと」が週刊朝日の主たる謝罪ポイントのようにみえる。


問題はそこではない。謝罪すべきポイントが全くずれている。

私は同和地区を特定したことが問題とは思わない。どこが同和地区であったかなど、ただの歴史に過ぎない。
少なくとも東日本ではそうだろう。仮に私の住んでいる地域がかつての同和地区であったとして、それが淡々とどこかで語られたとして、「あ、そう」ということでしかない。
地域の歴史としては、多くの同和地区はイコール貧困地区であっただろうから「昔、悲惨な状況にあった貧困地域をこのように整備、改善し、貧困を克服した。どうよ?」的なものである場合が多いのではないか。
中には「失敗だったな」「こうすればよかったのに」というような施策も「あれは効果的だった」というものもあるだろう。「最初は効果的だったが、しかし時代とともに重大な弊害が」というものもあるだろう。
現在も続く制度のルーツとして同和対策があった場合もあろうし、調べてみると驚くべきことにいまだに同和対策事業は続いている自治体が多くある。同和地区を特定することをタブーとすると現行制度の検証に支障がでる可能性もある。同和地区の特定をタブー視することはむしろ不適切だと思う。

また、謝罪文には「多くの関係者を傷つける事態をまねいたことについて、深く反省しています」とあるが、週刊朝日が想定している関係者の範囲はどこなのだろう。
非常に狭く問題をとらえているのではないか。この「関係者」に、例えば橋下氏の親戚でも同和地区出身でもない私などは入っていないだろう。

違う。

私が「週刊朝日」を許せないのは、「全ての国民に対し、自分ももし目立つ立場に立ったら、被差別民として糾弾され、差別されるかもしれないという恐怖を覚えさせ、委縮させたこと」だ。

自分の故郷が同和地区にあることを知っている人の恐怖はいかばかりだったろう。
しかし、この恐怖は一部の人のみのものではない。被差別部落は人為的につくられた差別だ。いつでも、いかようにでも被差別民はつくり出せることを、そして誰もが被差別民とされる可能性があることを、私たちは知っておいた方がいい。

再び「部落差別」を噴出、創出させないようにするには、意識的な努力が必要なのだ。

あの記事・見出しの掲載は「チェック体制」とかの問題ではない。

週刊朝日は「部落差別そのものを公衆の面前で堂々とまき散らす」という、廃刊すべきレベルのことやらかしてくれた。
しかし、これで廃刊したらマスコミは「同和はタブー」という誤ったとらえ方をするだろう。
タブー視しても差別はなくならない。より陰湿になるだけだ。

部落差別はむしろ以下の見地から語られなければならない。と私は思っている。

・部落差別、というか被差別者を設定する政治手法は、世界でありふれた政治手法だ。低レベルな政治手法に籠絡されない知恵や知識は社会で共有されるべきだ。
・同和対策は貧困対策でもあった。貧困対策は常に大きな政治的、社会的テーマだ。政府も部落解放同盟などの民間組織も、様々な取組を行った。失敗も成功もあったわけで、そこから学んで将来や他地域、他国に対して生かせる知恵は沢山ある。各地における同和対策の試行錯誤は日本の社会的財産だ。

 
週刊朝日」の記事を受けて、むしろ他社は「同和問題特集」を組むとか、そういう真っ向勝負な対応がなされるべきだったのではないか、とかえすがえすも残念に思う。

<関連記事>
2013年7月27日 同和教育について
2013年7月29日 ありふれた政治手法としての部落差別

<2014年5月追記>
この一連の騒動については宮崎学小林健治両氏による「橋下徹現象と部落差別」に詳しい。

橋下徹現象と部落差別 (モナド新書 6)

橋下徹現象と部落差別 (モナド新書 6)

この件に対する橋下氏の対応、反論は本当に見事だ。

今回の週刊朝日は、個人の人格否定、危険な人格の根拠として、血脈を利用しようとした。この「ロジック」が問題なんですよ。(橋下徹ツイッター2012年11月3日)

そう。問題はそこ。

メディアが勘違いしているが、被差別部落の話題も必要性・妥当性・社会的許容性の範囲内で論じられることも当然だ。(橋本徹ツイッター2012年11月3日)

むしろタブーにする方が不適切だと私も思う。特に大阪などでは同和問題は小さくない政治マターだし。

あと、この「週刊朝日」後の他雑誌記事として12月1日号の「女性セブン」の「橋下徹大阪府知事を激怒させた同和問題の真相」という特集が白眉だったそうだ。
見落としていて申し訳ない。今からでもどこかで読めるといいのだが。



<部落差別関連のお奨め本>
郄山文彦/組坂繁之「対論 部落問題」

対論 部落問題 (平凡社新書)

対論 部落問題 (平凡社新書)

角岡伸彦被差別部落の青春」

被差別部落の青春 (講談社文庫)

被差別部落の青春 (講談社文庫)

*1:穢意識による差別は江戸時代以前から各地であったが、それを積極的、大々的に政治利用したのは江戸幕府だ。