千葉敦子氏をふりかえる

映画「エンディングノート」を観て、千葉敦子氏をもう一度振り返りたくなった。

ジャーナリストだった千葉敦子氏は、乳がん発覚後、患者の立場から日本のがん治療現場の問題点の指摘、アメリカにおけるがん治療のあり方を紹介、いかにあるべきかの提言を行っている。
1981年乳がん発覚。1983年再発。ニューヨークに移住。1984年再々発。1987年死去。享年46歳。

乳がんなんかに負けられない」に始まり、「「死への準備」日記」などを出版している。
当時、千葉敦子氏の著作は社会に非常に強いインパクトを与えたと記憶している。少なくとも私は非常に大きな影響を受けた。ほとんどの著作を読んだはずだが、今手元に残っているのは「よく死ぬことはよく生きることだ」の1冊だけだ。

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

千葉敦子氏と80年代の日本を振り返ってみる。

患者への説明
 東京で治療を受けていたとき、一番の悩みは医師が十分な説明をしてくれないという点だった。ある医師は「アメリカのように何もかも患者に話してしまうのは問題だ」とさえいわれた。当地に留学している日本人医師に「どうして日本の医師は患者にきちんと説明して下さらないのでしょうか」と聞いたら「説明をしても患者は分からないから」という答え。
 ところがアメリカでは全く様子が違う。医師も看護婦も、患者の説明にできる限り答えようとする。医師は「何か質問はありませんか」といつも尋ねる。私が入院した病院の入院案内には、「患者の責任」という項目の中に「質問をすること」が含まれていた。
 (中略)
 病状について知っていることは患者の権利であり責任だと思う。医師が代わりに苦しんだり死んでくれるのではないのだから。
(千葉敦子「よく死ぬことはよく生きることだ」)

「説明をしても患者は分からないから」とは患者をバカにした話である。多分、お医者様は「お上」で、患者は「無知な下々の者」という意識が根底にあっただろう。一般の教育レベルが上がり、民主主義が浸透し、情報へのアクセスが整備され、このような態度は否定されざるをえなくなっていった。
もっとも「病気の当事者は患者である」という意識は薄かったのは患者も同様だろう。患者側も「先生のよいようにやってください」というお上にお任せ意識が強い人が多かったように思う。

千葉敦子氏は、自分の病気について一冊の本も読まず、基本的事項についてさえ勉強しない患者についても批判している。
ううむ、患者の義務。「主体的に生きる」という価値観がそもそもないとこの義務は受け入れられない。
患者が病気に主体的に取り組む義務があるという考え方は、「お上(行政・会社・親等々)に与えてもらうものを黙って受け入れ、従うのが正しい姿」という受動的パーソナリティーをもって生きてきた者には無理だろう。
21世紀の現在においても、この患者の義務が果たせない人も結構いそうだ。
確かに自分の病気、しかも末期のガンなどについて調べ、治療法などを選択し決断していくというのはきつい作業だろう。実際に末期がんを告知されたら、現実逃避や他人任せにしたい誘惑にかられるだろう。私に患者の義務が果たせるだろうかと不安に思わなくもない。いや、患者の義務を果たすことが私の矜持だとは思うけれども。

隠さず話す
 アメリカでは、患者にガンの病名はもちろんのこと、病状や治療についても包み隠さず話すのがあたりまえになっているから、どうして日本では隠すのか、とよくアメリカ人から聞かれる。
 ふつう日本で言われている理由は、「ガンだと知ると患者はガックリして病状が悪化するから」とか「説明しても患者は理解できないから」となっている。そして医療側と家族が一緒になって患者を欺くことが公認されている。
 しかし、医師と家族はだましおおせたと思っているかも知れないが、患者はうすうす気づいているか、ガンだと確信しているか、疑心暗鬼になって悩んでいる場合が非常に多いことは、私のところに寄せられる読者の手紙からも想像がつく。(中略)
 患者が医師に対して不信感を抱いているとき、最良の治療が行われるわけはないと思う。
(千葉敦子「よく死ぬことはよく生きることだ」)

信頼がなかったら治療などできようはずがない。
80年代までの日本でガンにかかるという悲劇に見舞われなくてよかったとつくづく思う。ガンそのものより、医療のあり方に対して憤死してしまいそうである。

もちろん、このような状況は過去の話だ。

国立がん研究センター病院」のホームページには「がん告知マニュアル」が掲載されている。
http://ganjoho.jp/professional/communication/communication01.html

がん告知に関して、現在は、特にがん専門病院では「告げるか、告げないか」という議論をする段階ではもはやなく、「如何に事実を伝え、その後どのように患者に対応し援助していくか」という告知の質を考えていく時期にきているといえる。
国立がん研究センター病院「がん告知マニュアル」)

現在、がん告知は多くの患者にとっても望むところとなっている。
厚生労働省の2008年「終末医療に関する調査」において、一般で77%、介護職で84%が「自分が治る見込みがない病気になった場合、病名や病気の見通し(治療期間、余命)を知りたい」と答えている。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/iryou/zaitaku/dl/07.pdf

患者に向けては、「患者必携 がんになったら手に取るガイド」も用意されている。
http://ganjoho.jp/public/qa_links/hikkei/hikkei01.html
非常に分かり易くて読みやすい。感涙の力作だ。
これを読むのは患者とその家族の義務だと言い切ろう。

がん治療に対する意識変化は、80年代とは隔世の感がある。
社会も変わってきている。

自立を保つ
 経済的に自立してきた大人なら、自立を手放すのを大変な苦痛と感じるのが普通だから、できるだけ自立を奪わないような工夫が欲しい。職場は、早退・欠勤を含む通勤が続けられるようなアレンジができれば、すばらしい。
 日本人は病人に対して「仕事は休んで闘病に専念して下さい」という人が多いが、ガンは安静にしていれば治るという病気ではないから、それよりも患者から生きがいを奪わないことの方が大切だ。
(千葉敦子「よく死ぬことはよく生きることだ」)

現在、「病気休暇」以外に「病気による時間短縮勤務」という働き方を認める企業があらわれてきている。

日々の問題
医療の質というのは、最新の機械や優秀な外科医だけで測られるものではない。不安に陥り、日常生活に問題がある患者を精神的に支援していく態勢も含まれるはずだ。
(千葉敦子「よく死ぬことはよく生きることだ」)

今日、「相談支援センター」が全国のがん診療連携拠点病院に設置されている。
http://ganjoho.jp/public/support/counseling_and_support_center/csc01.html

2007年の「がん対策推進基本計画」では「緩和ケア」の推進が強調されている。終末期だけでなく、初期段階から充実させることが宣言され、QOL(Quality Of Life)の観点から医療に取り組むことが明白になっている。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/06/s0615-1.html

なお、緩和ケア病棟(ホスピス)のある病院は現在、全国で242施設以上となっている。
http://hospdb.ganjoho.jp/kyoten/#03

80年代前半、日本ではホスピスという概念はまだまだ一般に知られていなかった。
少なくとも私は千葉敦子氏の著作でその存在を知ったと記憶している。病気を治すのではなく、患者の生の質を高め、よりよい死を迎えることを目的とする医療施設という概念は新鮮だった。
緩和ケア病棟に対する診療報酬の支払いが認められたのは1990年のことである。

ところで、改めて読んで気がついたのだが、千葉氏はアメリカのあるホスピスについて「聖職者が24時間詰めている」と紹介している。ホスピスには聖職者が詰めているのが一般的であるような書きぶりである。
日本では緩和ケア病棟(ホスピス)を持つ病院はキリスト教をルーツとする病院が多い印象は受けるものの、宗教関係者が常駐しているホスピスはほとんどないようだ。

日本のターミナルケアにおいて、欧米と比較して相対的に困難なのではないかと思う要素は宗教の不在だろうか。
宗教とは、根源的には本人と家族、社会が死をどのように受け止め、昇華するかという、超重量級の課題に対処するものとして存在するものだ。

一般的に宗教不在で日常と人生が成り立ってしまっている日本。いざというとき「ともに祈りましょう」という技が使えない日本でのターミナルケアの現場は、欧米におけるそれよりきついだろうと思う。
だからといって、既存宗教が死に際して役割を果たすのはなかなか難しいだろう。あえて一部で担える可能性があるとしたらキリスト教かもしれないが、一般の日本人がキリスト教に帰依するのは難しい。
仏教はどうも死を担う意思も欠けているようだし。
「患者必携 がんになったら手に取るガイド」の中にも宗教団体についてはなんの記載もない。これだけ宗教との関わりが希薄な社会でいきなり宗教との連携がいわれても違和感があるが。
しかし、こういうところで果たすべき役割を持っていない宗教法人の社会的存在意義や税制優遇に強い疑念は持たざるをえない。
押し付けがましい宗教勧誘ほど鬱陶しいものはないのだが、本来は宗教があった方が死は昇華しやすい、というか宗教なくしては死の昇華は困難だと思う。が、日本では宗教に対する拒絶感がある人も多いような気がする。

千葉敦子氏は「私は無宗教で死んでいく」と言い切っていた。このようにはっきりと無宗教での死を志向する人が一般的になっていくのかどうかは分からないが、日本では、これから欧米とはまた違う独自の発展を遂げていくのかもしれない。