穏やかな死に医療はいらない

ついに真打登場である。終末期のあり方に、これぞという本があらわれた。これからの日本でかくありたい死のあり方を幾つもの具体例で示してくれている。

萬田緑平「穏やかな死に医療はいらない」

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

「穏やかな死に医療はいらない」――考えてみれば至極当たり前のことである。

日本の平均寿命は約80歳。
今日、医療の発達や生活環境の改善で、多くの日本人は、感染症や不慮の事故などで人生の半ばにして死ぬことを免れている。

全ての人は老い、死に向かう。死は老いの延長上にある。老いは治せない。老いと戦う必要はない。枯葉が木から落ちるように、穏やかに老衰で死ねたら幸せだ。

今、天寿をまっとうして穏やかな死を迎えることができる人が増えている。だから本当は現代日本では、ほとんどの人が病院で死ぬ必要はない。

なぜならば病院とは治療のための場である。
治療とは、病気や怪我を治す行為をいう。医療の対象となるのは、手術や薬の対処により「治る」症状だ。医療現場とは、基本的に病と戦う場だ。
例え癌であっても「治療」が必要ない場合も多かろう。折角、老衰で穏やかに死なんとしているにもかかわらず、その死を医療で無理やり妨げたとしたら、それは人権侵害というものだ。

出来れば自宅で死にたいと願う人は多い。にもかかわらず、ほとんどの人が病院での死亡している。
2009年でみれば、病院での死亡が約80%、自宅での死亡が12%である。
(出典:厚生労働省 第5表 死亡の場所別にみた死亡数・構成割合の年次推移
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii07/deth5.html)

80%の人が病院で死ぬいまの終末期のあり方は、どう考えても適切でも幸せでもない。


★★★

萬田医師は在宅緩和ケア医として「上手に枯れて穏やかに死ぬ」という最期を支援し続けている。

そこには生の延長としての死がある。市井の人々の生活の場の中に死があるという方が自然でベストだ、と腑に落ちる気がした。
今の日本では、本当は穏やかに死を迎えられるはずなのに、医療によって壮絶でつらい死に方になってしまっているケースが多々ある。これは自分の見聞からも断言できる。

萬田医師による様々な看取りのケースを読みながら、こういう風に死を迎えることが可能なのか、と何度も驚いた。

今、在宅で死を迎えることは可能になってきている。在宅緩和ケア医、介護士、ケアマネージャーなど社会的サポート体制ができつつある。
萬田医師は独り暮らしであっても自宅で終末期を過ごすことは可能という。

もちろん、何が何でも在宅がよいというわけでもない。と思う。
介護という果ての見えない長期間重労働を家庭に押し付けること、あるいは主婦の無償労働を推奨する方向性は望ましくない。
西川美和監督の映画「蛇いちご」に、痴呆症の義父の面倒を見ることに疲れ果てた嫁が、義父の急変に気が付かないふりをして風呂掃除に没頭するシーンがある。そして義父は死ぬ。あのシーンはリアルだ。未必の故意であっても、それを誰が責められようか。
家庭という密室の介護現場ははっきりいって怖いと側面もある。

私は全ての町には映画「チェブラーシカ」にいう「友達の家」ならぬ「老人の家」が必要だ、と思っている。シェアハウスのような自宅感のある施設ができたら理想だ。

それでも施設ではなく、長年暮らしてきた自宅で死ぬことはもっと一般的であっていいはずだ。
かなり手のかかる状態であっても「最期までこの人とともに過ごしたい」という配偶者や家族がある場合もあるだろう。また、ガンでは、介護が大変な終末期はそれほど長くない場合も多い。本当に介護が必要なのは1か月程度だったりすることもある。

よく「ぴんぴんころり」で死にたいと言う人がいるが、あれは家族にとって結構悲劇的だ。実は私は父、母方の祖父母でそれを経験している。「ぴんぴんころり」は別名「突然死」という。倒れるまで普通に元気だったのに、突然倒れて死んでしまった。突然死は家族を大きな悲嘆と後悔に突き落とす。

萬田医師のいう「ゆっくりコロリ」「じんわりコロリ」の方が家族も本人も死に向かって心の準備ができるし、別れを告げたり、無理なく納得と満足のある死を迎えることが可能で理想的なあり方だと思う。

重要なことは死に向かっていることを否定しないことなのだろう。まず治ることはない状態にもかかわらず、治療を続けるからこそ悲劇が生まれる。

終末期に治す医療は必要ない。でも、死を到達点として道程を組んだとき、医療のできることはあるかもしれない。この手術をしておいた方が死ぬまでの道程が楽になる。とか、医療用麻薬で痛みを緩和するとか。死ぬ日までのQOLを向上させる方法があるならばそれを活用しない手はない。

自宅という生活の場で穏やかに最期を迎えられることが普通の社会になったら本当に幸せだ。

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