臨終の風景〜祖父の場合

父方の祖父が死んだのは1998年のこと。享年86歳。肺がんだった。
肺がんの進行は早い。ある時期に急激に痩せ、入院時には誰がどうみても「近い将来の死を確実に約束された末期がん患者」であった。高齢なのでがんの進行も遅いかもしれないという説もあったが、そうそう長くはないことは誰の目にも明らかな状態だった。

ある日、祖父の入院先から「危篤」の報があり病院に向かった。私には危篤とはどのような状態なのか今ひとつ不明確だった。

着いて目にした場面は私としては意外なものだった。

もう完全に自発的呼吸機能が失われているにもかかわらず、人工呼吸器を口から突っ込み無理やり空気を送り込み心臓を動かそうと試みている状態。いわゆる蘇生術がされていた。
危篤とは、すなわち「事実上死んでいます」という意味だったのか。

「…なにやっとんねん」。

繰り返すが祖父は老齢の末期がん患者、誰がどう見ても死にゆく者であることは明らかだったのだ。無理やり生命維持、というか蘇生をしていただく必要はない。

こんな無理やり祖父の身体(というか遺体)を頑張らす必要がどこにあるのだ。

「もう結構です。とめてください」。私は冷然と言い放ったかもしれない。

一応、私には幻想的希望があった。死はできれば安らかに迎えたいものだという。
実際は、死ぬ前に苦悶のひと時がある場合が多いようだ。しかし高齢だとその「苦悶のひと時」がなく眠るように死んでゆける場合が多いとも聞く。
祖父はがんではあったが、個人的には「老衰で死んでゆく」ととらえてよいのではないかという印象があった。

誤嚥から危篤(というか死亡)に至っているが、本当は眠るように死んでいけた可能性が高かったのではないかと思う。

あの人工呼吸器で無理やり空気をおくりこまれている、本来ならもう遺体のはずの者としみじみと別れの時を持つ家族がいたら、ホラーかブラックコメディの1シーンが出来上がると思う。
普通は無理だ。
別に「家族が着いた時には息をひきとっていました」ということでいいのに。なぜこの有様。


仮定は3つ考えられる。

仮定1)日本の文化
日本には「親の死に目にあえない」という表現がある。とにかく臨終の時には家族が同席するのが幸福なことだという価値観がある。よって家族が到着するまで是が非でも、何が何でも、無理やりにでも呼吸していていただくよう努力するという文化がある。

仮定2)医療機関リスクヘッジ
「当病院としては、出来るだけの治療を行い頑張りました」ということを患者の遺族によくよく見せてご納得いただくためのパフォーマンス。「出来る限りのことをしました」という体裁をとらないと遺族から何か言われる、下手をしたら訴えられるリスクがある。

仮定3)延命至上主義
とにもかくにも臨終の時を先送りすることを是とする価値観が医療機関にある。


多分、「仮定2)医療機関リスクヘッジ」が正解なのではあるまいか。
考えてみれば世の中には色々な価値観や状況の患者・家族がいる。
何が何でも親の死に目に立ちあいたいという価値観の家族もいるだろう。
または極端な話、患者の年金で暮らしているのでとにかく延命の努力をして欲しいという家族だっているかもしれない。
それを考慮すれば、医療機関とすれば「できる限りの延命措置をする」という保守的対応をとらざるをえない。

うん、医療機関側の立場で考えればそうなる。

でもそれでよいのか。みんな、そんな無理やりな延命措置をして欲しいのか。最期は穏やかに逝きたくはないか。

あの時、リビング・ウィルさえあればこういう齟齬は起こらなかったはずだ。

リビング・ウィルとは、治る見込みがなく、死期が近いときには、延命医療を拒否することをあらかじめ書面に記しておき、本人の意思を直接確かめられないときはその書面に従って治療方針を決定する方法をいう。

我が家の場合、終末期医療の方針について家族の意見は多分、一致していただろう。
祖父の場合、一番先に病院に到着できた私が他の家族の到着も待たず人工呼吸器をとめて臨終の時を決定したわけだが、家族から特に異議申し立てはなかった。

しかし家族間で患者の意思の推定や、家族としての意思が相違する場合も珍しくないだろう。その場合、医療機関側も対応に困る。やはり拠り所となる書面は必要だ。

リビング・ウィルは絶対に必要だ。「入院時にはリビング・ウィルをとるのが普通」というように医療業界も社会もなるといいのだが。

<関連記事>
2012年2月26日「リビング・ウィルは必要というか必須」

<2013年11月追記>
10年ひと昔とはよく言ったもので、今はこうした明らかに無駄な心肺蘇生は避けることができる。
DNAR(do not attempt resuscitation蘇生に成功することがそう多くない中で蘇生のための処置を試みないこと)に関する意思表示の機会が入院時にあることが普通になっている。