川端飢人地蔵尊

福岡博多の中州と言えば、日本有数の歓楽街だ。
そんな中州に、割と目立つ地蔵尊がある。


(写真出典:福岡市公式シティガイドhttps://yokanavi.com/spot/27150/

由来を読んでみる。

飢人地蔵尊由来

飢人地蔵尊上川端町と東中州の一角とをつなぐ水車橋畔に祀られている。
享保17〜19年(西暦1732〜1934年)に亘る所謂「享保の大飢饉」は260年の今日まで幾多の惨話悲話を残している。

当時、飢饉の為に食物がなくたおれた人々の遺骸を集めて葬り後人が石の地蔵尊一基をきざんで其の場所に建て毎年8月23、24両日上川端町1,2,3の組が施主となって盛大な施餓鬼供養を行なっている。

享保の大飢饉は徳川15代の幕政中「享保の改革」として良政を謳われた「米将軍」即ち8代将軍徳川吉宗の治政中に勃発した。

開闢以来と言われた、筑前の大凶作であった。
この大凶作の主因は、虫害、干害、水害、疾害の総攻撃で此の世ながらの地獄相を出現したものである。

餓死者の数は、全国で264万5千人に及んだ。実に死屍累々たる惨状は、目をおおうばかりであった。筑前で9万6千人の餓死者、病死者を出したが、筑前第一の都会博多はどんな災害をこうむったか……。

当時の博多の人口 男 11,054人、女 8,462人の約3分の1の6000人が死亡したと言う驚くべき数字が、この大飢饉の大惨状を物語っている。
その記念物としては、飢人地蔵尊を唯一のものとする。享保以来250〜260年間、上川端地蔵組合の者により、施餓鬼供養をつづけて来たもので其の霊験の新たかな事は年中参拝者の奉じるお灯明の火と線香の煙りが絶ゆる間がないのであります。

施主 上川端地蔵組合

福岡でこんな凄まじい飢饉があったとは。いきなり中州の歓楽街で知る衝撃。
享保の大飢饉、名前は知っていたけれども、これは地獄絵図。

「由来」に書かれている数字の根拠はなんだろう。
「ちょっと数字は盛ってないか? 」という疑念もちらりと頭をかすめる。
でも、いまだに供養を続けるほど、忘れがたい強烈な惨禍であったことは間違いないだろう。

この地蔵尊だけでなく、享保の大飢饉で亡くなった死者を供養する地蔵尊は、福岡市内に多数あるようだ。

例えば、横手享保飢饉地蔵
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/k-shinko/charm-event/minamijouhouhassinntai/yokote/yokote_kyouhonokikin_yokote.html

上記の福岡市のホームページから抜粋してみる。

享保17年(1732年)、福岡藩では42万6千石のうち収穫できたのは、わずかに4万3千石余り。福岡藩の全人口32万人のうち6万6千人が餓死した。横手でもほとんどの子どもは餓死したといわれている。

享保の飢饉での福岡藩の死者は通説では10万人以上が餓死したといわれているが資料では、

享保11年人口 320,215人
享保19年人口 253,852人
人口減 -66,363人

とあり、全人口の2割以上の約66,000人が死んだとみられる。

死者のほとんどは百姓で、武士の死者はゼロであった。
そして、福岡藩が幕府に報告した死者数は、たったの1,000人だけであった。

これは。
庶民の住む町場においては30%以上の餓死者が出ていても不思議はないし、農村地帯では全滅に近い状態の集落もあっただろう。

飢饉で飢えは平等に発生しない。子どもや、権力のない貧しい者が死ぬことになる。
辛酸をなめるのは弱き者だ。

この享保の大飢饉のあと、サツマイモの栽培が普及していった。確かに、複数の穀物を栽培していた方がリスク分散になる。

でも、米の強みは数年単位で備蓄できるところだ。更に言えば、サツマイモより米の方が長期間保存できる。
享保の大飢饉の直前、どのくらい米の備蓄があったのだろうか。

そして、享保の大飢饉ののち、備蓄の体制は変わったのだろうか。

享保の大飢饉のあと、ここまで凄まじい飢饉は福岡あたりでは起こらなかった。
たまたま自然環境に恵まれたのか、治政の成果か。