昭和の白いばらが散った

「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」
石川啄木『一握の砂』1910年(明治43年)発行)

正直、こういう切実な渇望は、2018年の今はないのではないかと思う。

そもそも首都圏へ移住した者の子や孫ならば、東京とは異文化の「ふるさと」の記憶は持たないし、地方からやってきた者にとっても、昔とは「ふるさと」との距離感が違う。

新幹線や飛行機、高速道路などのインフラが発達したおかげで、ふるさとは帰るにもそう遠いものではなくなった。

しかしながら改めてふりかえると「ふるさと」が遠かったのはそれほど昔の話ではない。

例えば新幹線も存在しない1960年代までは、確実にふるさとは遠かった。

新幹線の開通をみてみる。

1964年(昭和39年)東海道新幹線 東京 - 新大阪間開業
1982年(昭和57年)東北新幹線 大宮 - 盛岡間開業
1982年(昭和57年)上越新幹線 大宮 - 新潟間開業

ふるさとと東京の心理的距離感が決定的に近くなったのは1980年代あたりではないか。

飛行機の利用状況をみても1980年代で一気に身近になっているようにみえる。


(図出典:一般財団法人 日本航空機開発協会「平成28年版(平成29年3月発行)I. 航空輸送の推移と現状」)
http://www.jadc.jp/files/topics/38_ext_01_0.pdf

★★★

昭和6年(1931年)創業の銀座の正統派キャバレー「白いばら」は、日本地図にホステスさんの名前が提示してある外観が人々の目をひいた。


あなたのお国言葉でお話が出来ます
あなたの郷里の娘を呼んでやって下さい

「ふるさとの 訛なつかし」という渇望は、確かに昭和の銀座にもあっただろう。

でも、そのニーズはどんどん薄れていたはずだ。
店のコンセプトが完全に時代遅れになっているにもかかわらず、ずっと銀座で生き残ってきたキャバレー「白いばら」はちょっと不思議な存在だった。

ここ数十年は、失われた時代のもの珍しさで人目をひいた面もあっただろう。

銀座では、長年「白いばら」を目印に歩いてきた。いわば銀座のランドマークの一つだった。

そんな「白いバラ」が2018年1月30日、ついに閉店した。

慣れ親しんできた風景がなくなるのは寂しいが、むしろ「戦後すぐに建てられた木造店舗」が2018年まで営業してきたのは軽く限界を越えているだろう。

店のコンセプトも建物も、とっくに期限切れになっているのにもかかわらず、繁盛し続いていたのは、ちょっとした奇跡にみえる。
きっと居心地のいい空間を維持する人の力がそこにはあったのだろう。

しかし、いつも前を通るたびに「なぜ日払1万円で月収50万から100万円になるのか、さっぱり賃金体系が分からん」と首をかしげていた求人広告の謎はついに解けなかった。

【参考】
2018年1月22日「銀座の老舗キャバレー「白いばら」88年目の散り際」(産経新聞
http://www.sankei.com/life/news/180122/lif1801220030-n1.html