映画「アクト・オブ・キリング」

ジョシュア・オッペンハイマー監督「アクト・オブ・キリング
http://www.aok-movie.com/about/

映画史に残る作品であることは間違いない。
1960年代、インドネシア史の暗黒面を切り取ったこの作品、「ノンフィクションとは何か」「テーマに対しどのようなアプローチがありうるか」を考える上で、今後外せない作品だろう。

傑作という評価があるのも分かる。確かに「プロがつくったハイレベルな作品」だ。
しかし、どうも賞賛することにためらいも覚えるのだ。そういう問題作でもある。

1.私はインドネシアについて何も知らない

インドネシアについて、本当に何も知識がない、ということに自分で愕然とした。
人口2億3000万人を超えるアジアの大国なのに。
戦時中、日本が軍政をひいていた時代もあったのに。

全っ然知らない。スカルノだのスハルトだの名前は聞いたことあるけど区別つきません、みたいな。
いやはや、自分自身のアジア軽視ぶりにびっくりだ。

2.この映画で知ったインドネシアの近現代暗黒史

インドネシアでは1960年代に100万人を超える大虐殺があったらしい。
・とりあえず、「共産主義者」とレッテルを貼って殺害。中国系の住民も「中国系」という理由だけで問答無用で殺害。そして、そうした虐殺の実行者として民間人を使った。
・その大虐殺の実行者達は今も「国民的英雄」として社会的地位や権力を得ていて、虐殺も今に至るも社会的に肯定されているらしい。

…マジかいな。

3.虐殺者に虐殺を再現させる手法が浮かび上がらせる「悪」とは何か。

監督は実際に虐殺を実行したアンワルなる人物に虐殺を再現させる。
カメラの前で嬉々として虐殺を再現する彼には、微塵も「悪いこと、酷いことをした」という意識はない。
そりゃそうだろう、と思う。何しろ周囲は彼の「虐殺」を肯定しているのだ。例えば、テレビに出演して得意げに「何人も殺した」と話し、対するアナウンサーもそれに肯定的な答えを返すシーンは、インドネシア社会で彼(及び当時の虐殺)がどのように位置づけられているかがよくわかる。
影で「信じがたい鬼畜の所業」とか言いあっても、彼に面と向かってそう言う人はいないだろう。
それに大体、アンワルの上に命令者がいて、彼はその命に従って殺しを実行しているのである。彼にとって殺害は「仕事」であり、「自分が悪いことをした」とは考えにくいだろう。

で、この映画の成功は、主役に据えたアンワルなる人物がビジュアルにもかなり魅力的であることだろう。
彼は虐殺実行者だが、決して「悪党」ではない。現在は孫達をかわいがる、笑顔や表情にそこはかとなく人の好さが滲む、お洒落な好々爺である。

アンワルは60年代、町でフラフラしている「ちょい悪不良青年」だったにすぎない。彼は運動神経もよさそうで見目もいい。若いころはそれなりにモテただろう。映画のヒーロー達に本気で憧れてたり、ダンスに夢中だったり、本当に世界中、どこの町にでもいるおバカで愛すべき青年だったにすぎない。

アンワルと一緒に虐殺をしたアディはもう少し賢い。あの虐殺行為が、客観的にみて残虐で、世界の良識的な見識のもとにさらせば、とても許容されるものではない犯罪行為であるという認識は若干は持っているようだ。
そういう認識を頭の片隅に持ちつつも、現在、高級品を買いまくり、美しい妻と娘に囲まれた生活を享受している。彼の非の打ちどころのない富裕層そのものの現在の生活と、彼が殺しまくった無辜の市民達とのかい離にゾッとさせられる。

もっと「悪党」は新聞社を経営して、市民に勝手に共産主義者のレッテルを貼り、あることないこと書きまくり(普通に名誉棄損)、その殺害をアンワルに命じたシニクだろう。
臆面もなく「無辜の市民を殺害しまくった」ことを得意げに話す様子は信じがたく唖然とさせられる。

そして「悪党」というか「救いようのない卑劣な奴」と思うのは、当時、新聞社で記者として働きながら「殺戮は知らなかった」などと真顔でのたまうシレガルなる人物だ。皆に「はぁぁぁ??気づかなかったなんて、んなわけあるか!」「殺戮は新聞社の屋上でやってたし。全然隠してなかったし」とか突っ込まれる。しかし、こういう人物って「絶対いるよね」とも思うのだ。
そして私は悪党よりも卑劣な奴の方が嫌いだ。

4.オッペンハイマー監督もまた「悪党」である。

映画の中で、殺戮者達に村を襲うシーンを再現させる場面がある。
嬉々として再現に張り切る実行者達は、現実社会における権力者でもある。
権力者に「映画製作に協力してね」といわれて、なかなかに断れないだろう。
撮影が始まる寸前の、女性や子供たちの恐怖でひきつった顔が印象的である。
で、ここでもフィクションとノンフィクションが交錯する。過去の再現を演じるという名目のもとに、村人役達、まだ年若い女性たちや子ども達が暴力にさらされる。この撮影が明らかに強烈なトラウマ体験だというのが画面から見て取れるのだ。
「映画のために弱い立場の人々を暴力に晒した」という意味で、オッペンハイマー監督も明らかに加害者側に立つ「悪党」だ。
作品のためにどこまでが「許される」ことなのか。
私はどうもこの作品を「傑作」と呼ぶことをためらってしまう。この作品は「許されざる問題作」でもあると思うのだ。

5.主人公、アンワルの変化が興味深い

最初、映画スター気取りで殺害方法について嬉々として再現していたアンワル。
昔、自分が行った村を襲うシーンの再現を殺戮者の立場ではなく監督の立場で客観視することで、「うっわ、俺たちのやったことってこんなに酷いの?」と驚き、更に拷問の被害者役を演じることで「自分のやったことはあんな強烈な恐怖を相手に与えたのか」と初めて気づく。オッペンハイマー監督に「被害者の恐怖はあんなもんではないでしょう」と冷静に突っ込まれて沈黙する。
視点を変えて追体験させると、認識が変化することが解かる。
ラスト、アンワルが「過去、自分のやったことのおぞましさに強烈な拒否反応を起こしたシーン」が圧巻だ。

彼はモンスターでも異常者でもない。お調子者で、ちょっとおバカで、根は善良で、どこにでもいるオッサンに過ぎない。
例え嬉々としてやったにしても、こんなおぞましい殺戮をさせられた彼もまた被害者という側面を持つだろう。

★★★

インドネシアの近い過去、そして現在を描く映画として、価値ある作品なのは間違いない。
そして「ノンフィクションとは何か」、「報道とは何か」「映像作品とは何か」、「製作者に”許されること”とはどの範囲か」など、様々なテーマが凝縮した映画だ。

とりあえず、映像、報道関係者必見!
アクト・オブ・キリング