新美南吉「おじいさんのランプ」

新美南吉のベストを一つだけ選ぶとすれば、この「おじいさんのランプ」だ。
小学生の頃、課題図書というやつがあったが、この本は毎年、日本全国民の課題図書にすべし、とすら思う普遍的名作だ。

おじいさんのランプ(青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/635_14853.html

最初は立身出世の物語だ。孤児だった巳之助は、ランプを売ることで身を立てる。

巳之助はお金も儲もうかったが、それとは別に、このしょうばいがたのしかった。今まで暗かった家に、だんだん巳之助の売ったランプがともってゆくのである。暗い家に、巳之助は文明開化の明かるい火を一つ一つともしてゆくような気がした。

商売が楽しくて、なおかつその成果が視覚的に確認できて意義を確信できるなんて、これ以上幸せな状態があるだろうか。
しかし、世の中に電燈というものが登場する。

いぜんには文明開化ということをよく言っていた巳之助だったけれど、電燈がランプよりいちだん進んだ文明開化の利器であるということは分らなかった。りこうな人でも、自分が職を失うかどうかというようなときには、物事の判断が正しくつかなくなることがあるものだ。

「電気というものは、長い線で山の奥からひっぱって来るもんだでのイ、その線をば夜中に狐きつねや狸たぬきがつたって来て、この近きんぺんの田畠たはたを荒らすことはうけあいだね」
 こういうばかばかしいことを巳之助は、自分の馴なれたしょうばいを守るためにいうのであった。それをいうとき何かうしろめたい気がしたけれども。

 巳之助は誰かを怨うらみたくてたまらなかった。そこで村会で議長の役をした区長さんを怨むことにした。そして区長さんを怨まねばならぬわけをいろいろ考えた。へいぜいは頭のよい人でも、しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、正しい判断をうしなうものである。とんでもない怨みを抱いだくようになるものである。

これは現代を生きる誰もが見聞したことがある風景だろう。というか、かつて巳之助と同じ経験をした人、現在、巳之助と同じ状態の人も沢山いるはずだ。そして将来、巳之助と同じ状況にならないと確信できる人は誰もいない。

現代は変化の速い時代だと言われる。
技術の革新で今まで培った知識、技術、キャリアが無残に崩れ去る状況というのはよくあることだ。
例えば、鉄道で言えば、かつて改札口で定期や乗車券を駅員がチェックしていたが、自動改札機の登場でその役割を担う多数の駅員は不要となった。
「瞬時に適正な乗車券であることを判断する」「素早く的確に入鋏する」職人技は不要になった。
また、NTT(旧電電公社)でいえば、アナログ回線をひく手慣れた職人技は不要になった。

職業自体がなくなったり、その業界規模が大幅に縮小することもある。古くは紙芝居屋や旅芸人はテレビの登場でその職を失った。ちんどん屋も見かけなくなって久しい。事務職でいえばタイピストは消滅した職業だし、速記者も必要とされる場が急速に減少している。

「みんな何処へ行った 見送られることもなく」

長年培った熟練の技を持つ者が、その技術を必要とされる場が無くなる。今までの職場が消え去る。その風景をリアルで見ているから、かの中島みゆきの名曲「地上の星」に落涙してしまう。

しかし、変化という点では現代よりむしろ明治期の方が激しかった。江戸から明治へ。
「一身にして二生を経る」とは福沢諭吉の言葉である。社会制度や価値観の大変換も大きいが、人々の生活の変化も物凄く大きい。
その最も大きな変化の一つは光源の変化だろう。人々は夜、暗闇から解放されるのである。ランプによって。そして電燈によって。

村では電燈をひくことがきまり、ランプ屋である己之吉の既得権益または生活の基盤は崩れ去ることが決まる。それに対して己之吉は、八つ当たりに放火しようなどという、落ちるところまで落ちた行動の寸前で、目が覚める。火打石とマッチの性能差を体感することではっと気づくのだ。

巳之助は、今になって、自分のまちがっていたことがはっきりとわかった。――ランプはもはや古い道具になったのである。電燈という新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。古い自分のしょうばいが失われるからとて、世の中の進むのにじゃましようとしたり、何の怨みもない人を怨んで火をつけようとしたのは、男として何という見苦しいざまであったことか。世の中が進んで、古いしょうばいがいらなくなれば、男らしく、すっぱりそのしょうばいは棄すてて、世の中のためになる新しいしょうばいにかわろうじゃないか。――

そして己之吉は池のほとりに在庫のありったけ、50ほどのランプを池のふちの木の枝に吊してともし、その数個を割ってランプと決別する。


この時点において、ランプ屋を続けることは将来的にはじり貧としても、その50個のランプを売ることは可能だった。まだ電燈をひく予定のない村もあった。しかし、己之吉にはランプへの愛着が強い分だけ、例え損を出してもすっぱり決別するということがどうしても必要だっただろう。
多分、企業でも人で構成されている以上、同じことだろう。不採算部門があった場合、どうしたって未練とか愛着とか、そうしたものでぐずぐずと労力や時間をかけてしまいがちだ。

「わしのやり方は少し馬鹿だったが、わしのしょうばいのやめ方は、自分でいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしの言いたいのはこうさ、日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていた昔の方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地いくじのねえことは決してしないということだ」

1980年代まで多くの労働組合が「合理化反対」などというスローガンを真顔でかかげていた。
労働者のやるべきことは”ランプ”にしがみつくことではなく、新たに世の中で必要とされる仕事への適応、そのための新たな技術の習得だろうに。

流石に21世紀になって「合理化反対」などというスローガンは聞かないものの、今も「合理化反対」スピリットはそれなりに健在だ。
「既にその存在価値や意義が失われ、弊害すら生んでいる既得権益にしがみついてお金を得ている人っ」というのは今でも沢山いる。その中で自覚がある人は意外と少ないかもしれないが。しかし、その自覚と良心があると、なかなか苦しい。

新美南吉のこの作品は、一向にその今日性を失わない。