過ちは繰返しませぬから

広島の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。
私はこの「過ちは 繰り返しませぬから」という言葉が好きだ。
「繰返しませぬから」との言葉は、「過ち」の責任の一端は、碑の前に立つ私たち1人1人が担うことを示している。日本は、被爆者は、被害者であるという立ち位置にない。

また、ここに「2度と」という言葉のないこともいい。「2度と」という言葉がないことにより、「人間は誰も過ちを犯す」「人間は何度でも同じ過ちを犯す」という現実的認識を前提として、「だからこそ、過ちを繰返さぬための努力を続けることを何度でも誓う」と解することが可能となる。

ここで繰返さないと誓う「過ち」とは何か。
アメリカが広島に原爆を投下すること」とかいう狭い意味では勿論ない。
「投下するのがアメリカ以外ならOK」とか、「広島以外への投下ならOK」とか、「原爆以外の兵器によるものなら10万人以上の非戦闘市民を殺してOK」とか、それはないだろう。

更に言えば「長崎以降、原子爆弾が戦争で使用されていないからOK」なのか、「日本は1945年以降、交戦をしていないからOK」なのかといえば、それも違うと思う。

「過ち」とは何か。多分、人によって回答は違う。
例えば、ここで私の考える「過ち」に対する見解を書いたとして、それが長く、具体的であるほど反論は沢山あるだろう。


”過ち”に対する具体的見解に相違があろうとも「あの日以降も私達はずっと”過ち”を繰返し続けている」ことに間違いあるまい。そして「何度でも立ちかえり、祈る場として広島はある」と私はとらえている。

あの碑こそがヒロシマを特別な場所に昇華させている。