長崎、原爆と朝鮮人労働者

今年(2013年)の長崎平和宣言は印象的だった。

さて、かつて訪れた長崎原爆資料館で印象に残ったことのひとつは、被爆者のうちのかなりの割合を朝鮮人が占めていることだった。
長崎の原爆による死亡者は約7万人(長崎市原爆資料保存委員会 昭和25年7月発表)であったが、うち約1万4,000人は朝鮮人であった(注1)。
三菱造船においては、朝鮮人約5,000人が集団被爆している。

被爆して死んだ者の7人に1人以上が朝鮮人なのだ。というわけで、本来、原爆について語ろうとすれば、朝鮮人の強制連行と強制労働の問題は避けて通れない。

戦時、日本へ連行された朝鮮人は72万4,727人にのぼる。(注2)
被爆後、「一番最後まで死骸が残ったのは朝鮮人であった」という証言(注3)は、当時の朝鮮人差別の酷さをうかがわせる。

朝鮮人労働者に対する不当な扱いは戦後も続く。

例えば、戦時であっても企業で働けば賃金が支払われる。日本政府は1946年、賃金の未払い金を企業に「供託」させている。そして債権者である朝鮮人本人にも遺族にもこのことを通知しないまま、供託金は時効となり消滅している。
この供託について、日本政府は意図的に供託させたうえ、法令で決められている供託通知書の発送も怠り、それを日韓協定の請求権の項目にいれ、国内法で消滅させたとみられている(注2)。

どう考えても普通に酷すぎだろう。

日本は原爆投下という事象に限ってみれば被害を受けた立場だ。しかし、被爆者の物語をクローズアップすれば、当時の朝鮮人差別、強制連行・強制労働という日本の加害が浮かび上がる。

賃金すら「供託」という名の没収をしたわけで、朝鮮人被爆者の戦後の扱いは推して知るべしである。終戦とともに帰国した被爆者へは長らく何の補償もしなかった。
戦後68年が過ぎ、当時の労働者のほとんどはもう亡くなってしまっているだろう。終戦当時20歳と仮定しても88歳だ。

労働の対価を受け取る権利も、被爆被爆者としての援護を受ける権利も、基本的に当人にしかないだろう。しかし、あまりに時が経過しすぎていて、当事者に償うことはもうできない。
70年近くたってしまっては、遺族への賠償というのも何か違うと私は思う。今さら国対国の問題になるのも人の不幸の政治利用という感じがしていただけない。

でも忘れ去るのは違う。

現在および将来にわたる強制労働の抑止として、今、出来うる意義ある取組とはなんだろう。
「1910年、1937年、1945年、1950年における法整備や行政対応、企業対応はどうあるべきだったか」のシミュレーション検証とか、個人的には面白そうだと思う。
「面白そう」という言葉に反発を感じる人もいるかもしれないが、人間は面白いことでないと取り組まない。やるなら面白くて実のあることがいい。大学や高校でそういう授業をやればいいのにと思う。

もっとも、わざわざ過去のシミュレーションをしなくても外国人労働者問題は今でも厳然とある。
問題ありまくりの外国人研修制度とか、今、そこにある問題は、実は戦時中の風景と重なったりするのである。

過去の検証が現在や未来を変える。悲劇を繰り返さない。よりよい未来をつくる。という期待が教育や歴史という学問の存在意義を支えている。

「過去の検証より、今、ここにある悲惨の検証と対策の実施の方が重要じゃね?」というつっこみも頭をよぎるけれども。

「後になって過去を変えたり、起こらなかったことにしたりするわけにはゆきません。過去に目を閉ざす者は結局のところ現在をみることもできなくなります」
(1985年の戦争終結40周年記念式典で行われたヴァイツゼッカー西ドイツ大統領の演説の一節)


(注1)長崎市によれば、朝鮮人死亡者数は13,000名から14,000名。長崎在日朝鮮人の人権を守る会によれば22,198名。(出典:長崎原爆資料館
(注2)内海愛子「戦後補償から考える日本とアジア」
(注3)長崎原爆資料館による

<参考図書>
内海愛子「戦後補償から考える日本とアジア」