浄閑寺あるいは投げ込み寺

三ノ輪駅すぐそばに建つ浄閑寺は「投げ込み寺」という通称の方が有名だ。
浄閑寺には吉原の遊女(女郎)たちが無縁仏として葬られている。
「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と浄閑寺の墓地にある「新吉原総霊塔」に刻まれているが、ここに葬られた遊女たちの一生はこんなところだ。

<遊女(女郎)の一生>
極貧の家に生まれる(餓死さえありうるくらいの生活苦に喘ぐ)→吉原に売られる→郭を出ることもできず監禁状態。連日連夜、不特定多数との性行為を強要される。梅毒などの性病の罹患は必須の状態→死亡→投げ込み寺

吉原といえば華やかなイメージがあるが、もし、当時にタイムスリップして吉原の光景を目にしたら、普通の現代人はドン引きだろう。
明治期の吉原の写真をみたことがあるが、格子の後ろにずらりと商品陳列といった風情で女郎が陳列されている張見世は、まさに「人身売買というものを解りやすくビジュアル化してみました」という感じで、凄いなと呆気にとられる。

遊女は人間である前に商品である。だから、例えば病気になれば扱いは冷酷だし、折檻も苛烈を極める。(参考図書:永井義男「図解 吉原入門」)

図説 吉原入門

図説 吉原入門

浄閑寺はその来歴からして陰鬱さが漂うのはやむをえないが、それにしてもこの墓地は、ちょっと過密すぎないか。

卒塔婆の乱雑さもどうかと思う。

浄閑寺の檀家の方々には申し訳ないが、こんな息苦しいところに葬られるのは私ならまっぴらごめんだ。また、こんなところに墓参りに来るのもできれば御免こうむりたい。

★★★

墓地とはどのような役割を果たす場であろうか。

土葬が主流だった江戸時代においては「遺体の処理場」という側面がまず第一にあっただろう。
次に「死者の霊魂を鎮める場所」、「遺族が死者を偲ぶよすがとなる場所」という側面がどの程度あったかはその寺と地域の特性によるだろう。

江戸時代の浄閑寺は、(少なくとも女郎に対しては)「遺体の処理場」という機能のみを果たす場であったため、投げ込み寺と呼ばれたのではないか。「投げ込み寺」とは、より直接的に実態を表現すれば「女郎の死体処理場」という意であろう。恐らく「遺体」と表現されるほどの尊厳すら女郎にはなかっただろう。

翻って21世紀の日本では、遺体は火葬されることから、墓地には遺体処理の機能はない。火葬場で遺体処理は終わっているわけで、その意味で遺骨を墓地に埋葬する必要性はなんらない。

よって現代の墓地の機能はもっぱら「死者の霊魂を鎮める場」、「残された者が死者を偲ぶ場」となる。
この墓地の果たす役割の変容を明確に意識するならば、墓地の空間の造り方、更には立地も変わってくるはずだ。

思うに、墓地のあるべき場所としては郊外の広々とした景勝地こそふさわしい。
「郊外では日常的に墓参しにくい。毎日のように死者を供養する行為をしたい」と思うならば、例えば一部の遺骨を家に置くというのも一つの方法だ。遺骨の代りに位牌でもいい。

大体、墓石の下に遺骨を埋葬することが必ずしも必要なことなのかは疑問だ。今の主流である「何々家先祖代々の墓」とうかたちの墓石を建てるのは日清戦争以後のことだ。以前はほとんどの人が墓石などなく埋葬された。(参考図書:新谷尚紀「お葬式 死と慰霊の日本史」)

そもそもすべての死者に対し永続的な墓石を建てていたら、土地がいくらあっても足りない。大体、死者の記憶を持つ者がいなくなったならば、その死者を偲ぶよすがとしての墓は必要がない。「誰々という個人の墓」が必要とされる期間はそんなに長いものではない。
墓石を建てるのを家単位としたのは、死者と死者の記憶を持つ者が連綿と続く仕組みとも考えられる。が、現在の婚姻は「女性が何々家へ嫁入りすること」ではなく「両性(異なる家をルーツとする二人)の合意に基づき新しい家庭を築くこと」であり、家族はあくまで夫婦が基本単位であるから違和感が生じる場合も多い。

私は個人的には海への散骨を希望する。埋葬なら樹木葬などもよいが、その場合もとにかく土に還る形での埋葬を強く希望する。
私は何度か納骨に立ち会っているが、墓石の下のあのコンクリートの室に収められるのは、如何にも冷え冷えとしていて、見るたびにぞっとさせられる。あれでは土に還らないではないか。

死者は土に還り、残された者が死者を偲ぶ場は、清々しく心が穏やかになる場がいい。


<参考記事>
2012年10月30日 福井市の戦後復興
福井市では戦後の都市計画で墓地を郊外へ移転している。東京も福井市を見習うともっと快適な都市になると思う。