森下洋子氏の表現力

松山バレエ団で50歳を、いや60歳を超えていまだプリマとして舞台に立ち続ける森下洋子氏。
私が森下洋子氏の「白鳥の湖」を観たのは確か2008年のことだ。森下氏は1948年の生まれだから、すでに60歳近くであった。

値段との兼ね合いで舞台から相当遠い席での鑑賞だった。
が、末席であっても表現は届く。

森下洋子氏の何がすごいといって、60歳になってもなお、可憐で、はかなげな美しい少女を表現できるその表現力だ。

普通、身体はそれなりの努力をしていても、加齢を残酷なまでに身にまとってしまうものだ。身体的にいえば特に背中、肩から腕にかけてのライン、だろうか。また、精神面もにじみ出てしまう。大抵、20代半ばを過ぎ30代にもなると、どうしても成熟という名の変化を遂げてしまい、少女というには厳しくなってしまう。
一般人のそこそこの努力などではなく、日本、世界でトップクラスの舞台人の努力をもってしても、加齢とともに、若さや瑞々しさが必要とされる役を表現することは至難になってくる。

もっとも、そもそも10代でも”少女”を表現できない人はたくさんいるし、表現できるということ自体、ある程度希少なことなのかもしれない。

残念ながら50歳を超えた森下氏には、例えば、コジョカルやスヴェトラーナ・ザハロワのような登場した瞬間の「まさにプリマ登場」という水際立った存在感はなかった。そして技術で言えば今の森下氏より優れている若いバレリーナはたくさんいるだろう。「今の森下氏がプリマというのは如何なものか」という見解もあると思う。

それでも、森下洋子氏の50歳を超えてなお少女として破綻のない身体と表現というのは、やはり一つの奇跡を目にしているのだと思う。

少女を表現できないというのは古典バレエのプリマとしては致命的だろう。

今はモダンバレエという分野があるし、現代はそちらの多彩な表現の可能性の方に魅力を感じる人が多いから、少女を表現することはできない天才バレリーナというのもありだ。

しかしモダンを得意とする天才バレリーナには多分「白鳥」は踊れない。
技術の問題ではなく、表現の問題で。

白鳥の湖」や「ジゼル」などの作品は非日常的美しさを出現させることができる古典バレエの傑作である。そして、これらの作品で最も重要なのは表現力だ。技術も表現力も、訓練だけではなく、もって生まれた資質も必要不可欠だ。

森下洋子氏はバレエという芸術に選ばれし者であり、また、バレエという芸術に全てを捧げた人なのだな、と、彼女の舞台を観れば思う。