FBI フーバー長官

イーストウッド監督「J・エドガー(J・Edgar)」

J・エドガー Blu-ray & DVDセット(初回限定生産)

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きっとアメリカでは「誰でも知っているフーバー長官を、イーストウッドがいかに描くかが注目された映画」なのだろう。
イーストウッドは、この超有名人を、業績や果たした役割といった公人としての視点からではなく、「エドガー」という私人としての側面からフォーカスし、愛情をもってその肖像を描いている。

そして同時に、アメリカのある時代を体現していたフーバーを通して、
「われわれ(アメリカ人)は何者なのか」
「われわれはどこから来たのか(フーバーが活躍した1920年代から1960年代はどのような時代であったのか)」
を描こうとしている。

私は不明にして、フーバー長官について名前くらいしか知らなかった。

いやはや、随分と特殊で興味をひかれる人物である。

J・エドガー・フーバー(1895−1972)。
FBI初代長官。FBIの前身司法省捜査局局長となったのが1924年。そして長官任期は1935年から1972年。77歳で死ぬ瞬間まで長官であり続けた。

あの民主主義国家アメリカにおいて、大統領選挙のたびに閣僚の顔ぶれががらりと変わるアメリカにおいて、この任期は異常以外のなにものでもないだろう。なんと8人の大統領に仕えている。
この事実だけで十分興味がかきたてられる。この離れ業を可能にしたのは何か。

盗聴が彼の権力の根源の一つであったのは間違いない。盗聴で得た情報をもって歴代大統領の弱みをにぎっていたから誰も解任することができなかった、というのは多分、間違いなく事実だろう。ついでに盗聴はどうも個人的趣味も兼ねていたようでもある。

ニクソン大統領のウォーターゲート事件の洗礼を受けた後、もう私たちは盗聴自体にはそう驚かない。CIAもKGBなどの外国の類似組織においても盗聴は基本的活動だとは承知している。

しかし程度問題というものがある。
それに他人の寝室を盗聴するのはやはりちょっとどうかと思うのが普通の感覚だろう。FBIは多分エリート組織だっただろう。そのFBIに就職して、仕事が「他人の寝室の盗聴」だったら職員はげんなりしなかったのだろうか。

しかもその盗聴がフーバーの権力維持という個人のために行われていたとなれば、強く批判されるべきことだ。

基本的に盗聴とはまったく誉められた行状でも趣味ではない。良識ある市民としては「人としてどうかと思う」というところだ。

フーバーは決して尊敬できる人物ではない。


彼の魅力はきっとその有能さにあっただろう。おそらく天才といっていいレベルの有能さである。

分類好きだったことは間違いなく、犯罪者の指紋管理システムを作ったり、物証にもとづく分析など科学的捜査方法を確立したのはフーバーの功績だ。
映画で、アメリ国会図書館で検索システムの構築についてフーバーが自慢するシーンは効果的だ。分かりやすく「すごい!」と驚嘆してしまう。


彼の限界は硬直した世界観にあろう。例えばキング牧師を「共産主義者」ときめつけ、盗聴、脅迫している。

とにかく自分の価値観から逸脱する人間には「共産主義者」というレッテルをはる分類しかできないようにみえる。
新しい価値観(黒人も自分(白人)と同様、権利も能力も持つ人間であること。公民権運動の思想)を理解できない。
また、常に「敵(共産主義者)」を仮想設定しないと自己認識ができない幼稚な世界観の中にいるような感がある。

フーバーは、ときとして世界(というかヨーロッパの知識層)から嘆息にされるアメリカの善悪二元論的な単純で幼稚な世界観も体現しているのかもしれない。


★★★

映画では、フーバーと、副長官だったクライド・トルソンと秘書のヘレン・ガンディ、そして母親との関係にフォーカスしている。

フーバーは生涯独身だった。あの時代の社会的地位のある男性としては大変珍しい。
そして副長官のクライドも秘書のヘレンも若いころから数十年もの間フーバーに仕え、生涯独身だった。
3人の人間関係は一体どのようなものだったのか、確かに興味がそそられる。

映画では3人の関係をラブ・ストーリーとして描いている。
それは「フーバーの人生に救いと愛があったように」と願うイーストウッド監督の優しさだろう。

それはそれでよいのだが。

しかし、例えば若き日のフーバーがヘレンにプロポーズするシーンなど「絶対ないな」と思ってしまう。

同じ題材で、例えば、人間の保身やエゴや情けなさを冷徹にうつす西川美和監督のような監督ならどのような映画を撮るだろうか。
私としては、もっとある種の痛さと「確かにそうだったかもしれない」という説得力のあるフーバーの映画も見てみたい。