フィリピン旅行記録1〜国家は必要?〜

フィリピンに行ってきた。せっかくなのでつらつらフィリピンで考えたことを書いてみようと思う。

フィリピンに限らず南の国の街でお店に入ると、店員のやる気のなさにびっくりすることがある。
店員がだらっと座っているだけ。とか、なんか店の真ん中の床に車座になってごはん食べてるよ。とか、店に店員がいないし。とか。
総じて、あまり売る気が感じられない。店員が仕事モードじゃないことにびっくりしたりする。

うろ覚えなのだが、確か、太平洋戦争でフィリピン支配した日本によるフィリピンに関する報告書にこんな意味の文章が残っていたと記憶している。

「フィリピン人は怠惰で、西洋思想に毒された残念な(劣等な)民族だ」

当時、そして今でも同じ感想を持つ日本人は多いように思う。まったく独りよがりな、独断的価値観が恥ずかしい限りの見解なのだが。
しかも次の段階として、自分たちの価値観の押しつけという超はた迷惑な行為に続いていくのが実に困ったところでもある。

私のフィリピンに対する独断的見解は以下の通りである。

フィリピンの多くの島は、もともと「食べて生きていく」にはあまり苦労しない気候に恵まれている。戦後30年も小野田寛郎氏(旧日本陸軍兵士。敗戦を信じずフィリピンで戦争続行。1974年、日本に帰国)が生き残れたことはその証左だろう。社会とかかわらなくても生き延びられるほど、食べるものに恵まれた国。気候的にも凍死の恐怖のない国。

人々の考え方や行動様式は、どうしようもなく生まれ育った環境に支配される。
ちょっと網をしかけておけば魚はびちびちにとれるし、マンゴーやココナツもすぐ近くになっているし、1日中働かなくたって全然食べていけるという環境だったなら。そんな環境にあって、がつがつ働くなど「バカじゃないの?」と思うのが「正しい」のではないだろうか。
人生って何のためにあるのか。楽しく生きるが勝ちだろう。


で、思うのだ。フィリピンは本来は「国家」など必要ない地域ではないのか。

そもそも一般的に国家が必要とされた理由はこんな感じだろう。
1.生産および生活の安全のため、大規模な治水が必要だ(労働力としての人がたくさん必要だ)
2.自分たちの住んでいる地域では食べていくに十分なものがえられないので略奪が必要だ。もしくは自分たちの居住地で食べ物や富をえるより略奪した方がいい。(戦闘力としての人がたくさん必要だ)

少なくとも上記2つの理由はフィリピンにはなかった。

フィリピンは複数の島々から成り立っている国家だ。もともと、スペインが植民地する以前、フィリピン地域に統一的国家はなかったようだ。
そこにスペインがやってくる。1543年にスペインにより「フィリピン」と命名され、400年にわたるスペインの支配が続く。
1900年ごろ、独立運動がさかんになる。しかし、その後、スペインとの戦争に勝ったアメリカがフィリピン領有権を獲得し、アメリカの植民地支配がはじまる。
で、1942年、例の太平洋戦争で日本がアメリカを追い払ってフィリピン全土を占領し支配する。1945年、アメリカ再支配。1946年、一応、独立。


支配地域の経済的搾取という目的を持つ帝国主義者たちによる「国家建設」の歴史。

でも直観的に今はフィリピン地域も国家が必要な気がする。

今、国家が必要なのはなぜだろう。
国際社会なるものがあり、移動や輸送手段が発達している。地域の管理責任主体を明確にする必要があるので国が必要。ということになるのだろうか。

願わくば「フィリピン人の、フィリピン人による、フィリピン人のための国家」を。


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