島田裕巳「創価学会」

島田裕巳創価学会」がおもしろかった。

創価学会 (新潮新書)

創価学会 (新潮新書)

現代日本最大の宗教団体といえば、間違いなく創価学会だろう。

公称信者数でいえば神社本庁が9654万人(2001年現在)で最大だが、この数字には実態がない。神社のある地域の住人のほとんどを氏子としてカウントしているに過ぎず、まことに心外ながら、この数には私も含まれているだろう。
神道に毛の先ほどの共感もなく、宗教団体に所属することに非常に否定的なこの私さえ信者としてカウントする神社本庁の「信者数」は詐称だと私は考える。

誤解をさけるため付け加えるのだが、私が否定的であるのは「自分が」宗教団体に所属することであり、他人が宗教団体に所属することを否定するものではない。

憲法
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

さて、創価学会である。

島田氏は創価学会会員数を2001年現在で1748万人と見積もっている。
この数字については「この数字以上ということはない」という性質のもの、つまり過大な数字だと私は判断する。
しかし、1700万人は過大としても、例えば「創価学会には500万人を超える信者がいる」といわれて違和感はない。*1
しかも「名ばかり信者」ではない「実質的信者」が。

創価学会員は、自分たちの組織に強い一体感をもち、組織を自らのアイデンティティーの基盤とさえ考えている。(島田裕巳創価学会」。以下引用出典同様)

現代の日本でアイデンティティーの基盤として機能する巨大組織など、ちょっと思い浮かばない。

昭和の時代、例えば大企業は確かに「アイデンティティーの基盤となる存在」であった。

しかし現代社会において、会社は基本的にはゲゼルシャフトであるべきだと私は考える。
つまり、会社は利益や価値を産み出すことを目的として組織されており、個人は目的遂行のために持っている技能を提供することが求められる。個人(従業員)が全人格を依拠させる場ではない。という関係性である方が健全であると考える。
基本的にはゲマインシャフト(構成員の全人格の許容、依拠)は家庭に求めるべきである。もちろん、人間が長時間所属する集団にはゲマインシャフト的要素があるべきであるし、あるのが自然ではある。バランス感覚は常に問題となろう。

★★

創価学会の誕生は1930年(昭和5年)ということだから、昭和の新興宗教である。
そして勢力拡大がされたのは高度経済成長期である。なぜ高度経済成長の時代に発展したのか。

1962年に福岡市で行われた創価学会員の調査結果が興味深い。

・学会員の多くは小学校や中学校しか出ていない。
・職業の面では、「零細商業・サービス業の業主・従業員と、零細工場・建設業の工員・単純労働者など」が中心。
・現在住んでいる場所に生まれた者はゼロに近い。福岡市の外で生まれた者が8割を超え、その大部分は農家出身。

彼らは学歴が低く、そのため、大企業に就職することもできない。労働者であっても、労働組合の恩恵にあずかることができず、未組織の労働者として不安定な生活を送らざるを得ない境遇にあった。

創価学会の会員となった人間たちは、高度成長の波に乗って地方の農村部から大都市部へ出てきたばかりで、都市のなかでは、まだ確固とした生活基盤を築くことのできていない庶民であった。彼らは、未組織の労働者であり、社会党共産党系の労働組合運動の支持者になる可能性のある人間たちであった。
ところが、日本の労働組合企業別組合を特徴としており、労働運動の恩恵にあずかることができるのは、大企業に就職した労働者たちだけであった。したがって、大企業の組合に所属していない未組織の労働者は、組合運動にすら吸収されなかった。

なるほど。創価学会は既存の共同体(故郷の村、大企業、都市の既存地域社会)から排除された者たちの受け皿だったわけだ。

創価学会は座談会という武器をもっていた。会員たちが集まって、自分たちの目下の悩みを打ち明け、その解決策をアドバイスしてもらったり、励ましを受けたりする場である。

村的であり相互扶助的。
この相互扶助的側面が創価学会の興味深いところである。


しかしながら創価学会には大きな問題がある。

1963年から64年にかけて日本に滞在し、日本の新宗教の現状を調査したマックファーランドは、「創価学会の多くの信者の厚かましさや無作法によって、何度も何度も気分を害される」とのべている。
相当排他的で感じ悪いらしい。
創価学会は「法罰論」(価値のある宗教は、それを信仰する者に利益をもたらし、逆に、その信仰に逆らう者には罰を下すものでなければならないという考え)を強調するという。

「信仰に逆らう者には罰を下す」のは完全にまずいだろう。
オウム真理教事件浅間山荘事件を引き起こした思想と同様、反社会的で危険な考え方ではないのか。
個人的には、このような考え方を持っている団体が、今まで凄惨な事件を起こしていない方が不思議な気がする。

前段の「それを信仰する者には利益をもたらし」という思想も微妙である。
創価学会員の選挙活動はつとに有名なわけだが、創価学会員が政治に携わる場合、「それを信仰する者=創価学会員」をえこひいきすると言っているように聞こえる。
政治の目的は「最大多数の最大幸福」。政治家の必要条件は衡平性、全体バランスを考慮する視座を持つことと考えると、このような考え方を持つ創価学会員は政治を担うには不適格だ。

それにしても「利益」というのが興味深い。

そもそも学会員たちは、創価学会という組織と、信仰によって結びついているというよりも、利害で結びついている面が大きい。彼らが会員であり続けるのは、たんに池田を信望するからではなく、相互扶助組織としての創価学会の一員であることが、現実的なメリットをもたらすからである。

利益の追求。宗教団体の目的が利益の追求?
そもそも「宗教団体」の目的とは何であるべきなのだろう。

創価学会に関して言えば「信者に相互扶助的、アイデンティティの基盤となるようなコミュニティを提供することで社会を安定させる」という公益性は確かにあるだろう。

しかし、それらの機能を提供するものは宗教法人である必要はあるのだろうか。
スポーツや音楽などの趣味の団体は代替にはならないのだろうか。また、地域や会社でも緩いコミュニティを形成することは必要であろう。
また、「利益追求」という目的は普通は企業・会社のものであるはずだ。
相互扶助を強調するのであれば、例えば消費生活協同組合との違いはなんだろう。


と考えていくと、宗教団体に過剰な税制優遇などを行なうべき公益性はあるのか大いに疑問が生じる。
信者のみを救済する宗教団体に、そこまでの公益性は「ない」と考えるがどうだろう。

*1:2010年7月の参議院選比例代表公明党は760万票得票している。公明党の得票数=創価学会の信者数ではないが参考とはなる数字ではあるだろう。