商店街とイトーヨーカ堂

生まれ育った町を久しぶりに訪れた。閑散とした商店街、もしくは元商店街。

「あの角にあった八百屋さん、なくなったね」
「子どものころ、『ジャガイモください』って、『はい』って渡されたジャガイモがぷよぷよしてて、思わず呆然と立ち尽くしたなぁ」
「一本、どこを切ってもスが入って食べられない大根を売ってくれたこともあった。あとで『あの大根、使えるところがなかったのだけど』って言ったら、『そんなの取り替えてたら商売が成り立たない』って言い放たれたっけ」

「あ、この辺に洋品店があったよね」
「薄暗くて、埃をかぶってて、『誰が買うんだよ、こんなの。』みたいなのを売ってたよね」
「昔、入ったはいいけど、買うものなくて買わずに出たら、おばさんがドアから出て、ずーっと見送られたことがあったなぁ。次にどこの店に入るかチェックしてたのよ、あれ」

公立小学、中学の不合理に高価格な指定上履きや体操着を売ってた。今にして思えば、低所得世帯にとってはシャレにならない負担だったのではないか。

「ここのケーキ屋さんはまだやってるんだ」
「昔、ここのケーキを買ったら、髪の毛が入ってたのが忘れられない。あと、砂糖のかたまりがジャリっていったこともあったっけ」
「ま、ここの家、すっごく土地持ってるからね」
ケーキ屋の本業は不動産業。土地持ちの店は客がいなくてもつぶれない。


私は「大型スーパーの出店が地域の商店街を圧迫する」とかいう商店街を被害者に見立てた論調を見聞すると、「ちょっと待て」と思う。

あの町にイトーヨーカドーが出来た昭和の日。生活者からみればそれは画期的な救済の日だった。

「まともなものを、まともな値段で売ってくれる店が出来た!」
生活者からすれば、イトーヨーカドーは救世主だったといって過言ではない。


今、都内で商店街の近くに住んでいる。こだわりのある個性的で魅力的な店がたくさんあって楽しい。それらの店は、結構繁盛している。客側はスーパー1店舗どころではない数多の選択肢がある中で、商店街の中の個人店舗をひいきにしている。
ヨーカドーは便利であっても「ここにしかない、特別に愛着のある店」にはなりえない。

あえて言おう。「ヨーカドーごときに負ける店など要らない。指定学用品などという既得権益のみで生きている店など要らない。淘汰されてしまえ。」