三陸海岸大津波

吉村昭三陸海岸津波」は、ぜひとも読むべき名著である。


三陸海岸大津波 (文春文庫)

三陸海岸大津波 (文春文庫)

 或る海辺に小さな村落があった。戸数も少なく、人影もまばらだ。が、その村落の人家は、津波防止の堤防にかこまれている。防潮堤は、呆れるほど厚く堅牢そうにみえた。見ずぼらしい村落の家並に比して、それは不釣合いなほど豪勢な建築物だった。
 わたしは、その対比に違和感すらいだいたが、同時にそれほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた。(P.66)

今回の津波について「1000年に1度」などと言われることは大変遺憾だ。確かにマグニチュード9という大きさは1000年に1度の規模かもしれない。しかし津波による惨禍は100年に3度以上生じているものだ。

三陸は1896年(明治29年)、1933年(昭和8年)、1960年(昭和35年)そして今回と、たびたび大津波に襲われている。

明治29年の折には、・・、海岸にある田老、乙部が全滅している。田老、乙部の全戸数は336戸であったが、23メートル余の高さをもつ津波に襲われて1戸残らずすべてが流失してしまった。人間も実に1,859名という多数が死亡、陸上にあって辛うじて生き残ることができたのはわずかに36名のみであった。(P.95)

昭和8年の大津波でも、岩手県下閉伊郡田老村は、最大の被害を受けた。死者は901名、流失家屋も559戸中500戸というすさまじさである。地震があった後寒さに辟易してふとんに入り眠ってしまった者は、逃げおくれてすべてが死亡しているのである。(P.120)

この100年あまりで2度目または3度目の壊滅を体験している地区が複数ある。

津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。(中略)。しかし、明治29年昭和8年昭和35年津波の被害度をたどってみると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。
死者数を比較してみても、
明治29年の大津波   26,360名
昭和8年の大津波     2,995名
昭和35年チリ地震津波  105名
と、激減している。
流出家屋にしても、
明治29年の大津波 9,879戸
昭和8年の大津波 4,885戸
昭和35年チリ地震津波 1,474戸
と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろんできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられてきたことも、その一因にあるだろう。
(P.172)

自然災害が起こるたび、次の被害を減少させる対策がとられてきた。
今、また同様に、今回の津波被害を早急に検証して対策を講じ、次回の津波の際の減災につなげなければならない。
そうでなければ現在の「被災者」は、未来の人々への「加災者」となってしまう可能性がある。

「こうすればよかったのではないか」「これはすべきではなかった」など反省点は山のようにあるはずだ。個人ではなく、組織として、社会として。
「起こってみないとなかなかそこまで気がつかない。」という反省点が多いだろうが、報道の中には「事実とすれば、むしろそれは行政の未必の故意。しっかり批判、糾弾すべき」と思われる対応が特定の自治体に集中してあり、1年以内に事実を現地で確認したいと思っている。


今回の地震発生時刻は14時46分。平日。天候は晴れ。避難の条件としては恵まれていた。
もし発生が真夜中だったら。もし天候が雨や雪だったら、犠牲者はどのくらいだったのだろうか。

「最悪の津波到来状況」を仮定してみる。

<仮定する状況>
地震(水平動の強震)発生午前2時32分
・季節は厳冬。気温零下10度近く。
・天候は雪・強風。

ちなみに1933年(昭和8年)の津波は3月3日の厳寒の中。地震発生時刻は午前2時32分だった。

暖かい家でぐっすり眠っている最中、地震に気がついて起きたとして、果たしてどのくらいの人が避難するだろうか。

私だったらまず避難などしない。

(理由1)外に出られる服に着替えて寒い外に出るのは大変面倒。
(理由2)津波は来ないかもしれないが、寒く、雪のふぶく中、外に出たら風邪をひくかもしれない。というか風邪をひく確信がある。

冬は風邪やインフルエンザに罹患している可能性が高い。その場合、

(理由3)そもそも高熱などで体力が低下しているため、外に出ると体への負担が大きく体力的に厳しい。来ないかもしない津波に備え、確実なダメージが予想される避難をする気にはならない。

原則として、住居は避難が必要な地域に建てるべきではないと私は思う。
就寝中の可能性も高い上、私なら住居からでは地震から20分たっても避難開始できない。住居には持ち出したいものがありすぎる。防寒着、大切な思い出の品、アルバムなど。報道によれば、位牌に思いを残す人が多かったようだ。

「一、家財には目をくれず、高い所へ身一つでのがれよ」(昭和8年の津波後に県庁から出された「地震津波の心得」)

無理。

だいたい家庭にいるのは体力に恵まれた強者ばかりではない。家族に走ることの覚束ない高齢者がいたら。小さな子どもを2人も3人も抱える母親がいたら。
今回の津波到達はもっとも早い地域で地震から30数分後。住居からでは逃げきれない。
住居が津波の危険の高い地域に存在する限り、再度の悲劇は約束されたものとなってしまうのではないか。

これが職場(事務所・工場など)からの避難であればどうか。
職場であれば就寝中の人間はまずいない。職場では多くの人間が今、何をすべきかを考えている状態、いわば臨戦態勢で存在している。職場からであれば、避難指示が出て即時、遅くとも10秒後には避難開始している自信がある。職場から避難するのであれば逃げ切れる。それに、企業には当然津波避難マニュアルがあり、指示系統が確立している。
いくつかの大企業しか確認していないが、それなりの企業で工場、店舗などの職場で勤務中、津波で亡くなった人は非常に少ないようだ。

ふりかえってみて、明治、昭和初期においては、三陸沿岸に住む人々は海の幸によって暮らす漁師が多かった。
また自動車も社会に普及していなかった。そのような中、海から離れた高台に暮らすことは大変不便であったため、津波の危険は認識しつつも海岸沿いに住居地域が形成されたことは仕方のないことだったと思う。
しかしながら、徒歩ではなく自動車での通勤を前提とすれば、津波で壊滅した地域は原則として事務所等、事業所のみとすることが可能なのではないか。

歩くにはしんどい距離、坂道も、自動車やバイクであれば負担感もなく時間もかからない。
誰もが自動車やバイクを持てる社会環境となった21世紀の日本において、再度、津波による壊滅の可能性の高い地域に住居建設を許可することが妥当なのだろうか。

避難訓練、高地への住居移動、防潮堤の建設の3つの津波対策のうち、最も重要で効果的なものは、高地への住居移動だ。と多分みんなが思っている。

自治体レベルではなく、国レベルで住居建設禁止地域を設定すべきではないか。罰則つきで。住居建設禁止地域の設定に際し自治体や地元住民の声を聞いて特例を認めることはあるにしても。

自治体レベルでなく国が規制する理由は十分にある。例えば、

1.津波被害により困窮する人に対し「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する義務を国は負っている。津波被害が甚大であれば国の負担が大きくなる。
2.個人の住居にかけることのできる地震保険は国が再保険している。つまり地震保険は国(日本国民の税金)が担保している。

1896年(明治29年)とは、1933年(昭和8年)とは、社会環境は大きく違う2011年の今だからこそ出来る次の津波対策を実現できるかどうか。それが問われている。

三陸海岸津波Kindle版も出た(2012年9月)。

三陸海岸大津波 (文春文庫)

三陸海岸大津波 (文春文庫)