アイヒマンショー

1961年、アイヒマン裁判が、世界37国で放映された。

まず驚くのは、終戦から15年後の身柄拘束と裁判の実現、ということだ。

終戦は1945年。アイヒマンの身柄拘束は1960年だ。なんと終戦から15年も経ってから、言わば地の果ての南米アルゼンチンに隠れ住んでいる個人を、探し出して、拘束して、イスラエルまで運び、裁判を実現したのだ。

イスラエル、どれだけの高度なミッションを達成しているんだ」。

そして、このアイヒマン裁判がテレビでお茶の間に放映される。

アイヒマン裁判が、お茶の間に流されるのに適切な題材なのか、という点は、個人的には疑問だ。お茶の間という日常に流すには、あまりにも非日常的で信じがたく残虐な記録だと私は思う。

それはともかく、アイヒマン裁判のテレビ放映があったからこそ、アウシュビッツ収容所は「誰もが知る事実」になった。

映画『アイヒマン・ショー』の中に印象的な場面がある。
イスラエルに住むホロコースト生存者がこう語る。
「今まで、自分の経験をありのままに語っても、“ありえない”と信じてもらえなかった。だから(生存者たちは)沈黙せざるを得なかった」。


アイヒマン裁判では、ホロコーストにおける虐殺の映像が証拠として法廷内で流され、また、100名を超える生存者が生々しく証言する。その証言は、語りながら気絶してしまう証言者もいるほど迫真の生々しさに満ちている。

100名以上の証言者。更にアウシュビッツなどで残された虐殺の映像。誰がホロコーストを、彼らの体験を否定できよう。
アイヒマン裁判で、ホロコーストの残虐を、”ありえない”と否定することが不可能なまでの証拠と数多の証言が提示されたのだ。

ナチスホロコーストと言えば、ユダヤ人虐殺を連想するが、実は、ロマ、同性愛者なども虐殺の対象だった。もし、ホロコーストの対象が、ユダヤ人でなかったら。ロマなどだけだったら。ホロコーストの記憶は、歴史の片隅にひっそりと埋もれていった可能性が高い。

一応、ナチスホロコーストを秘密裏に行おうとしていた。絶滅収容所は、人目を避ける場所に設置している。

1963年から1965年にかけて、ドイツでホロコーストの責任を問うフランクフルト・アウシュビッツ裁判が行われているが、裁判開始当時、アウシュビッツは今ほど知られていなかったという。

今、「アウシュビッツ」や「ナチスホロコースト」が世界中で常識として知られているのは、沢山の記録や積み重ねた裁判、ホロコーストに関する著作や映画などによる周知の積み重ねがあったからだ。
1960年代より、21世紀の今の方がアウシュビッツ知名度が高いという事実。
ただ、すごいな、と驚嘆する。


さて、アイヒマン裁判と言えば、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」だ。

ホロコーストは、あまりに常軌を逸した残虐さで、「こんなことをするなんて、どんな悪魔のような悪党なんだろう」と普通は思う。

しかし、アイヒマン裁判のテレビ撮影監督を務めたフルヴィッツが、裁判開始前から、「“モンスター”などいない。だが、人間は、自分が行った怪物的な行動に対して責任をとる必要がある。なにが子煩悩な我々と同じようなありふれた男を、何千人もの子供を死に追いやる人間に変えたのか。我々は、状況下によっては誰でもファシストになる可能性があるのだ」という強い信念を持っていた(出典:映画『アイヒマン・ショー』)ことは興味深い。

ドキュメンタリーと言えど、「真実」は、撮影者、編集者の「意図」「やり方」により、変幻自在にその姿を変える。

ハンナ・アーレントの著作は、フルヴィッツの影響が強いのではないか。

確かに、アイヒマンは本当にどこにでもいる、ありふれたサラリーマンや公務員にみえる人物だ。「よくいるタイプの人物だな」と「アイヒマンによく似た同僚や知人」を思い浮かべる人は多いはずだ。
アイヒマンが同僚として隣の机で仕事をしていたと想像しても、まったく違和感がない。
仮にアイヒマンが、朝、挨拶を交わす近所に住む人だったとしても、「常識的でまともそうな人」だと思うだろう。
大体、身柄拘束の直前のエピソードが「結婚記念日に妻に送る花束を買った」とか、平和な家庭人を連想せざるをえない。

しかしアイヒマンは、裁判で、どんな生々しい証言がなされようと、ホロコーストの悲惨な映像をみせつけられようと、平静を保ち続け、淡々と無罪を主張する。「自分はただ命令に従っただけ」と。

アイヒマンは、ユダヤ人強制移送を仕切った責任者である。

確かにホロコーストアイヒマン1人で行なったわけではない。が、アイヒマン自身、かなり積極的に「ユダヤ人問題の最終解決」にかかわっている。

にもかかわらず、自分に責任はないと。
当時は当時の空気の中にあったとして、数年後に悔恨で取り乱したりすることもないと。
法廷の至近距離であれだけの悲嘆に接しても、罪の重さに取り乱すこともないと。

やはりアイヒマンは“モンスター”だと私は思う。

一般に、“モンスター”と言った場合、思い浮かべるのは、例えば、ロシアのアンドレイ・チカチーロのような「見るからに異形の殺人鬼」や、ヒトラーのような「狂気にとらわれた人間」だろう。


でも、多くの人を苦しめ、殺害した(殺害に関与した)にもかかわらず、言葉を失うような残虐な行為を実現したにもかかわらず、「命じられたことだから自分に責任はない」と平然と100%の責任転嫁ができて、良心の呵責を全く感じずにいられる(ように見える)人間は、これまた“モンスター”ではないかと思う。

多くの元兵士は、戦場での出来事を懸命に忘却して、正気を保って戦後の日常を生きていく。
なかには、過去の「罪深い」「正気とは思えない」記憶に耐えきれず、精神を病んでしまう人、死んでしまう人、社会から落伍してしまう人もいるし、例え、無事、老人になるまで生きながらえても、ふとした瞬間に噴出することもある。

あれだけ、「あなたのやってきた酷いこと」を目の前に突きつけられて平然と座っていられるというのは、ちょっと自分に出来ることとは思えない。

やはり、アイヒマンは“モンスター”にみえる。

とはいえ、アイヒマンのような“モンスター”はそんな珍しくはない。
言うなれば、アイヒマンは“普通のよくいるモンスター”なのだろう。

ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督『アイヒマンショー』