大火と保険と共済と

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉がある。
そりゃ誰が考えても昔の木造家屋はよく燃えたであろうし、照明は行灯やろうそくという環境であったし、火事は頻発してただろう。
建築技術の発達、電気の普及等の火気の安全性の向上などによって火事がそれほど身近な怖いものでなくなったのは多分、最近のことだ。

戦後の火災による全焼全壊・全損半損の棟数、世帯数の年間平均の推移をみてみよう。

上記の表を図にしてみる。

総務省消防庁「平成22年版 消防白書 付属資料2−7」を元に作成)
http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h23/h23/html/shiryo2-07.html


罹災世帯数でみれば3分の1以下になっている。この数字からだけでも「戦後日本社会の素晴らしい進歩」が読みとれる。
焼損棟数より罹災世帯数が多かったのはそれだけ「木造長屋住宅」に住んでいた人が多かったということなのだろう。

なにより特筆すべき社会の進歩は「大火」が生じなくなったことだと思う。

「大火」という言葉が使われたのは、1976年の「酒田の大火」が最後だろう。今や「大火」という言葉をリアルタイムで目にしたことのある人、聞き覚えのある人の方が少ないかもしれない。
地震によるものを除けば、大火の発生状況は
50年代 16件
60年代 8件
70年代 1件

という具合に激減し、消滅している 滅多に発生することはなくなっている。

注)2016年12月22日に糸魚川大火が起こったため修正。


地震によるものも入れると「1995年に長田の大火なるものがあった」とも言えるのだが、あくまで阪神・淡路大震災の被害の一環としてとらえて除いて考える。

総務省消防庁「平成22年版 消防白書 付属資料2-8」を元に作成)
http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h22/h22/html/shiryo08.html

50年代を振り返ると焼損棟数が1,000棟を超える大火も珍しくない。中でも1952年の鳥取大火における焼損棟数は7,240棟。なんとも凄まじい。

1950年当時の鳥取県の人口が約60万177人、鳥取市の人口が16万8,463人。鳥取大火の罹災人員数が2万451人。鳥取県人の3.4%、鳥取市民の12%が罹災していることになる。多分、焼損棟数の割合もおおよそ準じるであろう。

さて問題である。

「大火が頻発する社会において、火災保険は成り立つだろうか」。

保険は大量の同質のリスクを集積してその分散を図るメカニズムであるが、これを実現するために必要な技術が保険技術である。保険技術は、収支相等原則および給付反対給付均等原則に集約される。

(1) 収支相等原則 保険契約者から拠出される保険料の総和と保険者の保険給付の総和が等しくなるように保険を運営するという原則をいう。個々の保険契約者についてはリスクが現実化するかどうかは偶然に左右され、リスクが現実化しない場合と現実化する場合の経済的な効果には大きな差が生ずるが、リスクを集約することにより統計学上の大数の法則を利用して保険加入者全体についてはリスクが現実化する確率を高度に予測することが可能となる。
(出典:山下友信「保険法」)

「大火が頻発する社会において火災保険は成立するか」。
市町村規模はもちろん都道府県規模での火災保険事業すなわち火災リスク引き受けは無理であろう。自治体クラスの事業規模ではまず確実に「否」。
全国規模でも「否」とまでは言わないが「相当困難」だったのではないか。


50年代当時、火災保険の保険料は非常に高く、都市部の木造住宅密集地域などでは保険会社の契約忌避があったようだ。
リスクを考えれば当然といえば当然だろう。
ただ、「損害保険会社の社会的責任」という観点からこの時代を総括するなら、「損害保険会社の残念な歴史」ではないかと個人的には思う。工夫、努力のしようはあったと思う。

火災保険に対する庶民の強いニーズはあった。
それに応えたのはどこか。

共済である。

先駆けとなったのは現在のJA共済「建物更生共済」だ。
全国規模の本格実施は1953年であるが、早くも1949年に北海道で「建物更生共済」の原型となる「農家建物更生共済」が開発されている。
北海道の農村は集落を形成しない散村であり類焼危険も少なかったという。
全国の農村も「大火」の危険がないことでは大差ないだろう。大火リスクのない、しかし、保険会社にとっては営業コストが過大になるため手が出しづらい顧客層。確かに農協が火災保険を提供するのは合理的だ。
国民(農家限定だが)のニーズに応え、かつ保険としても成り立つ。JA、実に上手い。

大火リスクへの挑戦という観点からは、注目すべきは全労済であろう。

驚くべきことに、現在の全労済が火災共済事業を開始したのは大火が頻発している50年代のことである。
(以下の引用出典:全労済ホームページ「全労済のあゆみ」http://www.zenrosai.coop/zenrosai/ayumi/index.php

労働組合を中心とした共済活動は、1954年12月に大阪で始まり、翌1955年には新潟で、また1956年には富山・長野・北海道・群馬・福島にも誕生しました。いずれも、発足にあたって、まず火災共済事業を手がけました。

この共済の歴史は、「国民(労働者)のニーズに応えて誕生した輝かしい歴史」という側面と「保険会社びっくりの無謀な事業開始」という側面の両方があるだろう。
労働組合中心ということは、契約者層は都市在住者が多数を占めることになる。
しかも労働者は、類焼リスクが低い「山の手の庭つき一軒家」ではなく「下町の木造密集地帯」に住んでいるだろう。
大火の影響をもろに受ける契約者層だ。大火が頻発する中で地域共済として火災リスクを引き受け開始とは、どう考えても「無謀だ」と思わざるをえない。

案の定。

特に新潟では、発足のわずか5カ月後に大火災に遭遇しました

発足からわずか5か月で新潟大火。
これは「不運」というより「当然に想定されるリスクの顕在」と受け止める方が妥当だろう。

が、組合員の総力をあげて取り組んだ結果、掛金収入を上回る給付金の支払いという困錐を乗り越えることができ、共済事業の歴史に残る一歩を標すことになりました。

「掛金収入を上回る給付金の支払い」とはすなわち収支相等原則が破綻したということだ。しかし、この破綻という「困難を乗り越え」事業継続。
熱さを感じざるをえない。

この大火災を契機に、各地で共済事業が始まるとともに、さらなる非常事態や大災害に備えるために、事業の全国組織化が急がれることになりました。

どれだけ「走りながら考える」的な。

1957年、事業を開始していた18都道府県労済は、その中央組織として、「全国労働者共済生活協同組合連合会」(労済連)を結成し、火災再共済事業を開始

高度成長期だったから、こういう事業展開でもなんとかなったのだろう。

結果的には、火災共済は大きく日本社会に貢献してきている。その功績を否定することはできない。が。

共済は間違いなく「異端児」であった。毀誉褒貶、色々な評価があるのが異端児の特徴。
とにもかくにも共済は「おもしろい存在」であったことは間違いない。