貧乏の定義、選択肢の不在

「あんた、金持ちと貧乏人のちがいを知っているかい」
「そりゃあ、財産のあるなしだろう」
「そうじゃねえよ。逃げ道があるかないかさ」
「貧乏人は犬や猫と同じで、与えられたものを食うしかねえ。たとえどんなにまずくたって、腹をこわしそうな気のするものだって、生きるためには目の前のものを食うしかねえんだ。ガキの時分からそういう暮らしをしていると、すっかり習い性になって他人の言いつけに逆らうことを忘れる。希望ってえものがはなっからねえんだよ」
浅田次郎「沙高樓綺譚(さこうろうきたん) 雨の夜の刺客」)

さすがは当代きっての文豪、貧乏というものについても実に鮮やかに看破する。

選択肢を持てない、選択肢を考えることすらできない。それが貧困の中にある人々だ。
貧困問題を考える上で重要な視座だが、現在の貧困問題はここではひとまず横に置こう。


日本の多くの人々が貧困から抜け出したのは多分、1970年代以降。
日本社会はもしかしたら今もまだ精神的に「貧乏」を引きずっているのかもしれない。
例えば会社のこんな光景。
「上の言ったことはつべこべ言わず聞け(違法なこと、筋の通らないことでもとにかくやれ)(実行すると後々大きな問題が発生する可能性があること、合理性のないことでも何も言わず素直に言った通りにやれ)」
「会社は基本辞められない。なにしろ転職は著しく不利。つまり足抜け不可」

経済的に豊かになったにもかかわらず、いまだに思考の自由、選択の自由を持てず、いわば貧乏人根性が抜けないとすれば悲しいことだ。

まだまだ「めざせ、脱・貧乏人根性」といったところか。
さて「貧乏人根性礼賛主義から脱却しようぜ」という視点から必要な制度、ルールとは何だろうか。

また一方で、この現代日本で選択肢のない究極の立場にある方を思い出す。

皇太子(将来の平成天皇)が少年だったころの有名な逸話がある。

少年時代、「将来なりたいものは?」という質問に「私は天皇になる(I shall be Emperor)」と答えられたという。
「○○になりたい」と答えるような、将来に選択肢を持つ自由は皇太子にはない。皇太子の言葉は、少年の発する言葉として哀しい。

そうした他に選択肢がない、逃げ道がない状態に1人の少年を置いてしまうことは、罪深いように思えてならない。