広域避難場所に住まう〜パークシティ浜田山〜

吉村昭関東大震災」を読む。

新装版 関東大震災 (文春文庫)

新装版 関東大震災 (文春文庫)

大火災は、9月1日正午に始まり9月3日午前6時までつづいたが、東京市の43.5%に達する1048万5474坪という広大な地域が焼き払われた。殊に日本橋区は1坪残らず焼失。
東京市の全焼戸数は、全戸数48万3千戸中の30万924戸に及んだ。(出典:吉村昭関東大震災」)

なんとも凄まじい大火災である。
しかし関東大震災の東京都の推定震度は6弱。今、1923年の関東大震災と同等の大地震が起っても、都市計画の推進、建築技術の発達により、再びこのような大惨事は起きないだろう。例えばあの百花繚乱とさえ形容したい高層ビルの立ち並ぶ日本橋にしても「1坪残らず焼失」はない。
次の東京を襲う大震災で、私達は戦後、営々と進められた21世紀の東京の都市計画と建築技術の成果を目の当たりにするだろう。現代の建築技術の粋を集めた高層ビル群の倒壊、大火は基本的にはないはずだ。木造住宅の耐火技術も向上している。区画整理の進んでいない一部の木造密集地域の危険性は指摘されているところだが、都市計画がきちんと実行された木造住宅地帯であれば大火もないだろう。例えば、国立市のあの整備された住宅街に大火など、考えられない。

東京市で最も悲惨な光景を呈したのは本所区横綱町にあった被服廠跡であった。2万430坪の広大な敷地は三角状で附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察書院も同地に避難民を誘導した。そのため被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起こって、推定約3万8千人という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の55%強に達する。(出典:吉村昭関東大震災」)

避難先での大惨事。特に家財とともに避難することが大惨事を引き起こしていることは注目に値する。
江戸時代の大火災も踏まえ、「家財は持ち出すべからず。身一つで逃げよ」とは吉村昭氏が繰り返し伝えた教訓であり、昭和までの時代においては基本的には正しい。

が、21世紀においてはむしろ「逃げる必要のない住居に住むべし。」が正しいのではないか。
一例として三井不動産の「パークシティ浜田山」をみてよう。(以下、引用の出典はパークシティ浜田山のパンフレット)

壊れにくい街であるために、大きな地震が発生しても住み続けられる住まいであるために、安定した地磐のもとA・B・C・D・E棟は免震構造を採用。F・G・H・I棟は耐震等級2を取得。

耐震等級は1より2の方が上。耐震等級1は、建築基準法上の基準を守っているということに過ぎない。買うなら耐震等級2以上の物件だろう。とはいっても現状、マンションで耐震等級2以上の物件は少ない。

ライフラインの継続
万一の震災時にも暮らし続けられる住まいであるために、壊れない建物を目指すと共にライフラインにも対策を施しました。

つまり、パークシティ浜田山に住んでいるのなら避難の必要はない。なにしろこの地の前身は「広域避難場所」である三井浜田山グラウンドなのだ。

避難できる街。災害時は中庭を避難スペースとして開放いたします。

これは住居者と避難者との間での調整が大変そうだ。例えば、ゴミの出し方や始末方法をなどなど、細かい軋轢が当然生じるだろう。それを調整する手腕と労力は相当なものではないか。正直、実際の運営はかなり困難なのではないかと想像する。普段からマンションの管理組合がしっかり機能していること、パークシティ浜田山に協力しあえるコミュニティがそれなりに成立していることが必要条件だろう。しかし挑戦する価値のある試みだと思う。

また、この中庭を避難スペースとして開放するという「挑戦」ができるための地域環境を維持するために、パークシティの住人も普段から積極的に地域とかかわっていくのだろう。
社会の治安が良好であることが前提になければ開放などできない。極端にいえば、戦前のように貧民窟(スラム)がある社会であれば、居住地を避難民への開放することなど実際には行なえない。

地域とのつながりを育み、地域一体で安心を分かち合える街。隔絶するのではなく、共に生きる街。

住居はかくありたいもの。この理念、心から支持したい。

セキュリティーの追求とやらで、住居、ことに高級住宅は「危険の排除」という方向に進みがちだが、社会から孤立して何が楽しいのだろう。そんなアメリカによくありがちな高級住宅街、私は間違っていると思う。
自宅さえ守られれば安全という考え方では、結局、安心して歩ける街を失ってしまう。

パークシティ浜田山〜広域避難場所に住まう〜

うん。実にかっこいい。
そしてパークシティ浜田山ならずとも、いざというとき避難せずに済む住居にできれば住みたい。