この襤褸をみよ

浅草の「アミューズミュージアム」はちょっとおもしろい。

http://www.amusemuseum.com/boro/

展示しているのは田中忠三郎コレクション。

「江戸時代から何代にも渡り、青森の山村、農村、漁村で使われてきた“ぼろ”とよばれる衣服や布類」である。

いわゆる襤褸、ボロというものを初めてみた。

今、穴が開いたり擦り切れたりした服を着ている人は滅多にいない。そもそも擦り切れたりする前に「最近着なくなったから」みたいな理由で捨ててしまう。「襤褸」となる前に、衣類は消えてしまうのだ。

以下、引用は「アミューズミュージアム」の展示である。

今あらためて見れば、そのままイタリアやフランスのハイファッションになりそうな完璧なデザインです。

というのは「認知の歪み」というやつではないかと私などは思ってしまう。
「デザイナーがインスピレーションを得る」くらいはあるだろうが、ボロはボロだ。

ただ、相当に不衛生だったであろうボロを清潔に長期保管したというのは、田中氏の偉業だ。普通なら、跡形もなく消失しただろうに。


むしろ展示をみて圧倒されるのは、たった100年前の日本の地方の貧しさ、生活環境のあまりの違いだ。

掛け布団

明治〜大正期のもの。中に詰める綿は高価であったため、布団の内側にも着古した仕事着を何枚も詰め込んでいる。重さは8キログラムもあり、どっしり重い。

8キロとは。重さでうなされそうだ。しかもこれ、重い割に暖かくないと思う。


なお、こちらの「ドンジャ」という夜着は14キロもあるそうだ。


稲藁や枯草の上にボドコを敷いて、家族5〜6人が一緒に寝た。
冬はシラミが多く着物を着て眠れなかったので、みんなハダカでドンジャを被って寝た。

どんだけ不衛生だよ。洗濯機がなければ洗濯も一苦労、という以前に、複数の着物は持ってなくて、みな「着たきりスズメ」だったのかもしれない。

なにしろ、衣服は切実に貴重だった。

青森の古い諺に「泣いてあやぐる(取り合う)形見分け」という言葉がある。葬儀の場で親戚縁者が鳴きながら故人の衣類を奪い合うという意味だ。かつての雪国では寒さから身を守るためのわずかな布がいかに大切だったかが、この諺からもよく分かる。

更に、擦り切れた部分の繕いをするハギレさえも貴重だったらしい。

ハギレ

明治末期から大正時代。
青森の農村村に関東や関西の人達の木綿の古着と共に、様々な布が入るようになった。
しかし、小さな布でも持っているのは地主か資産家の人に限られた。
小布、ハギレを持っているのは、豊かさの象徴だった。

ハギレさえ持てない貧しさ。

いまや、誰でも山ほど衣服を持っている。何着持っているか正確に把握している人はほとんどいないだろう。

衣服は大体毎日洗濯するから、シラミに悩まされることもない。

たった100年そこそこでこの生活環境の激変。

この激変ぶりに思いを巡らせると、ちょっと圧倒される。