リビング・ウィルは必要というか必須

「終末期医療に関する調査(調査時期2008年3月)」の結果は興味深い。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/iryou/zaitaku/dl/07.pdf

自分が治る見込みがなく死期が迫っていると告げられた場合、延命治療を望む人は11%。
家族が治る見込みがなく死期が迫っていると告げられた場合、延命治療を望む人は24.6%。

自分の場合と家族の場合で大分差がある。
「自分は望まない延命治療を家族には望む」と表現するとどうかと思うが、実際の現場ではアンケート結果以上に「家族に延命治療を選択する」人は多いだろう。
なぜならば、以下の理由が考えられるからだ。

・「自分は家族に対して出来るだけのことをしている」と思いたい。(←ごくごく普通の感覚)
・親戚やご近所等、周囲に批判の余地を与えたくない。「できるだけのことをしている」というポーズをみせる強い必要がある。

「ポーズをみせる必要がある」と書くと反発があろうから補足説明する。
「外野が何を言おうが本人と家族がよかれと思う措置を行なう。陰で何を言われようが知ったことではない。また面と向かってつべこべ言われた場合は考え方を説明するし、場合によっては一喝することも辞さない」という姿勢がとれる人はどれだけいるのだろうか。なにしろ「和をもって尊しとなす」日本である。トラブル回避を第一義に考える人も多いだろう。また、精神論だけで片付けてはフェアではない。置かれた立場も考慮すべきだろう。患者名義の土地に住む長男夫妻の場合、口さがないド田舎で自営業で生計をたてている場合、地縁血縁どっぷりな世界で暮らしている場合、そうした姿勢はとりにくい。

まれに(かどうか分からないが)
・親の年金を頼りに暮らしているのでとにかく延命して欲しい。
という場合も考えられる。誰がどう考えてもモラル的に問題があるケースだが。

現在の終末期の現状は、例えば特養ホームの常勤医、石飛 幸三医師の勇気ある告発と提言の書、「「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか」で知ることができる。この本は高齢の家族がいるならむしろ必読だろう。

「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか

「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか

もう終わりが来ているのに、それが何であれ、病院で医療措置をすることが少しでも誠意を示したことになるというのが今までの感覚でした。また、医者の方も病気だけを重視し、人間としての患者を見ていなかったきらいがあります。
(石飛 幸三「「平穏死」のすすめ」)

長く「患者に人権無し」の時代が続いてきたのではないかと思う。
よりよい死、穏やかな死を目指す権利もまた人権の一部だと私は考える。死は本人のみならず家族をも含むイベントだ。悲しみの中にも清々しさや満足感のある死が理想だろう。

家族等が「なにこれ」「これはむごい」「みていられない」「本人もこの状態を絶対望んでない」と思うような状態をつくりだす「治療行為」はむしろ人権侵害とさえ言えるのではないか。
・事実上の遺体に対する蘇生術
・反応のない痴呆症高齢者に対する胃ろう
・覚醒の可能性がなく人工呼吸器装着で心臓停止を待つばかりの状態

現在、日本では延命のために胃ろうをはじめ様々な方法が用意されている。しかし、それらが自然な死、穏やかな死を妨げているという指摘は今までもよくなされていた。しかし、無名の市井の市民、すなわち患者の家族、介護士、看護師の指摘は大きな影響力を持ちにくい。また「とにかく延命」ではなく「よりよく死に向かうこと」を主眼においた措置を提案したり実行をする「権利」は医師以外には認められていない。

石飛医師という名のある医師が現状を告発し、平穏死を目指した取り組みを実施し、世の中に「平穏死」を提言したことの意味は大きい。

私は終末期において胃ろうも人工呼吸器も蘇生術もごめんこうむりたい。
ならばその意思を示そう。

リビング・ウィル(治る見込みがなく、死期が近いときには、延命医療を拒否することをあらかじめ書面に記しておき、本人の意思を直接確かめられないときはその書面に従って治療方針を決定する方法)に賛成するか」

1998年には47.6%だった「賛成」が2008年には61.9%に急増している。
医師・看護・介護の場合は約80%が賛成している。おそらく現場を知っている人ほど賛成するのではないか。

本人が延命治療を望んでいないかどうかなど、家族に以心伝心で伝わってなどいない。家族の解釈は個々人でばらばらだ。家族としてどう望むかも個々人でばらばらだ。


「書面で残さなくても」という考えは甘いというか現実に立脚していないだろう。
本人の考えがどうであったかなど、家族によって解釈が分かれる場合は珍しくない。

例えば窓から桜の木をみて「この桜が満開になるのをみたいなぁ」と言ったとして「来年の春まで是が非でも生きたいと思っている」と解釈されても私なら困る。
「○○したいなぁ。無理だけど」の「無理だけど」の部分が抜けてるとか、「言ってみただけ」というような台詞が吐けないのであれば随分不便だ。


また、どうしても気持ちは揺れ動くものだ。揺れ動いても結局のところ立ちかえる原則を明示しておく必要がある。原則が変わったのであればリビング・ウィルを書き直せばいい。
リビング・ウィルという明確な拠り所がないと対処方針を決定する際、一々もめるだろうし、決定も困難だろう。


リビング・ウィルは「全日本病院協会 終末期医療の指針(2007年)」をみると書式集も付いているのでイメージしやすい。
http://www.ajha.or.jp/voice/pdf/071219_1.pdf

このリビング・ウィルの書式例がよいのは、医療行為ごとに意思表示ができるところだ。
輸液、中心静脈栄養、経管栄養(胃ろうを含む)、昇圧剤の投与、人工呼吸器、蘇生術、その他とあり、それぞれに意思表示ができる。

日本尊厳死協会にも「尊厳死の宣言書(リビング・ウィル)」が掲載されている。
http://www.songenshi-kyokai.com/

こちらは具体に欠けるが実効性の面で問題ないのだろうか。

日本尊厳死協会は、リビング・ウィルの法制化に向けての活動も行なっている。確かに本人、家族の合意のもとの対応を行なったのに「遠い親戚」などから延命治療を行なわなかったと訴えられたらかなわない。

医師は心身の障害を治すのが仕事です。延命のために尽くす、それは確かに第一義的仕事です。だがそれだけではありません。尊厳ある死、平穏な死に貢献することも医師の大切な仕事ではないでしょうか。(石飛 幸三「「平穏死」のすすめ」)

<2013年11月追記>
2013年発行の萬田緑平氏の「穏やかな死に医療はいらない」はとてつもなく名著だ。終末期に関連してこれほど感銘を受けた本はない。石飛医師は特別養護老人ホームに勤務されているが、萬田医師は在宅緩和ケア医である。つまり多くの人が希望する在宅での死の迎え方について書かれている。今や日本には理想的な死を迎えることが可能な体制ができつつある。日本で穏やかに死にたい人、これから迎える家族の死に後悔や納得いかない気持ちを持ちたくない人、必読!

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)