多様性の否定、排除の可視、それは

小学校の同級生にN君という男の子がいた。

色白で、髪が肩下まで、そう、少女マンガの主人公くらいに長く、女の子のような言葉遣いで、女の子向けの小物やアニメが好きな子だった。

彼の家族はどこも変わったところのあるようには見えず「普通」としか言いようがなく、彼の性向は環境によるものでは決してなかった。
生まれつき「こういう子」もいるんだなぁ。そう思った。

彼を表す言葉はなんだろうか。
「オカマ」、「性同一性障害者」、いずれの言葉も私には違和感がある。

個人的イメージで大変申し訳ないのだが、「オカマ」と聞くとどうも「オカマというキャラを演じている人(成人)」をイメージしてしまう。N君は私のイメージする「オカマというキャラ」ともちょっと違うように思うし、キャラを演じている匂いも感じられなかった。

性同一性障害者」という言葉には、「なんで障害者なんだ?」という疑問を感じてしまう。

仮に「障害者」とは、健常者と共に日常生活、社会生活を送る上で著しいハンディのある者と定義しよう。

例えば、目がみえない場合、耳が聞こえない場合、健常者とともに授業を受けることは、基本的には無理だ。黒板の字や先生のジェスチャーが見えない、先生の言葉が聞こえないということは、先生の発した情報の半分以上を受け取れないということになる。
もしも健常者とともに授業を受けるのであれば相当な労力を要するサポート、特別対応が必要になる。

しかしながらN君が学校生活を送るにあたって何ら支障はなかった。
同じクラスになったことがないし、本人としてはどう感じていたかも知らないので言い切ってしまうのに若干の躊躇はあるが。

正直、私を含め多くの子がN君を「変わった子」という目ではみていたし、距離も置いていたように思う。彼は一人でいることが多かったかもしれない。

個人的には、それはいたしかたなかったと思っている。彼の独特の少女趣味と感性には大抵の子はついていけない。彼とつるむのは難しい。

しかし、排斥やスケープゴード的扱いはなく、つまり「いじめ」はなく、基本的には級友として、みんな普通に接していたと思う。

実際、彼に嫌悪感を持ったり不快に思う子はいなかったと思う。
私を含め、周囲の人々がN君が傷つくような言動をしたことはあったと思うが、彼が周囲に対して攻撃的だったり意地悪だったりしたことはない。
改めて思い返すに「いい子だった」と思う。

彼は普通に登校し、学校生活を送っていたのである。小学校を卒業するまでは。

彼は私と同じ公立中学校に通うはずであった。しかし、彼は1日たりとも中学校に登校しなかった。
1日も登校しないまま、彼はその中学校を卒業した。

「そうか、義務教育とは1日も登校しなくても卒業できるということか」

違う。ものすごく間違っている。

なぜ彼は中学校に登校できなかったのか。

中学には制服と、必要性と合理性皆無の訳の分からない校則なるものがあった。
あの髪の毛はうんぬんというやつだ。
中学入学前の春休み、N君の寝ている間に母親にあの髪を切られてしまい、そのショックで不登校になったと聞いた。
噂で聞いたに過ぎないから事実かどうかは分からないが、ここでは事実と仮定して話をすすめる。

その話を聞いた時、「そんなことで」と言ってしまった私は考えなしで無神経な子どもであった。
いや、今でもとっさにはそう言ってしまうかもしれない。今でも無神経な人間である。

確かに私でも寝ている間に髪を切られたらものすごいショックを受けるであろう。
が、私にとって髪はそう重要なものではないし、何より私は計算高い人間だ。人生で不利益の大きすぎる中学不登校になることはない。

しかしN君にとってあの長い髪は、彼のアイデンティティそのものだっただろう。自分自身をまざまざと全否定された衝撃であっただろう。

彼にとって、髪を切られたことは「そんなこと」ではなかった。と冷静に考えればわかる。
私が彼の母親なら100万回、後悔するだろう。

でも、そもそも罪深い問題の所在は、彼と彼の母親を「髪を切らないといけない」と追い詰めてしまったことにあるではないか。

「公立中学であるにもかかわらず、中学はN君を排斥した。彼から教育を受ける権利を不当に奪った」。私はそう理解している。

もしも「多様性の受容」というお題目が、全国の公立中学で唱えられるのであれば、鼻で笑わざるを得ない。

あの制服、あの校則。人の服装や髪型を規制することに何の必要性も合理性もない。

N君は普通の子であった。
多分、一般的日本社会においてN君のような子は、相当に頭の回転がはやくて立ち回りが上手く、精神的に強くしたたかで、運がよくなければ生き残れない。
もちろん、理解と包容力と強さを持つ親に恵まれていることも必須条件だ。
N君は排除されてしまった。共に学校生活を送るのに何の支障もない子だったのに。排斥する必要などどこにもなかったのに。

命じられる「型」にはまることが出来ない者は排除するという強烈なメッセージの可視化。それが制服と校則。

すなわち多様性の否定。

違うだろうか。

国民の教育を受ける権利を不当に阻害しないために、公立中学、公立高校は、制服および合理的理由のない校則は廃止すべきだ。

と私は思う。